象山神社
勝海舟 坂本龍馬など、幕末の英傑を生んだ五月塾塾長 佐久間象山がご祭神の「象山神社」で書置きの御朱印と他にも4社の御朱印を頂きました。
頂けるのは長野市に鎮座する「玉依比賣命神社」「白鳥神社」「中村神社」「祝神社」です。
すべて書置きのため数に限りがあります。
品切れとなっている場合もありますのでご注意ください。
2022.06.09参拝

「象山神社」
長野県長野市松代町1502


鳥居脇に建つ佐久間象山の銅像。

佐久間象山は幕末の思想家で松代藩士でした。
文化8年(1811年)2月28日、松代藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人であった事から藩に重用されていた佐久間一学国善の嫡男として生まれました。
兵学・朱子学に精通し、天保2年(1831年)3月、松代藩第8代藩主・真田幸貫の世継ぎとなる長男・幸良の近習として教育係に抜擢されるほど、その才能は高く評価されていました。
しかし象山は、父親が高齢で親孝行が出来なくなる事を理由に、わずか2か月ほどで教育係を辞任してしまいます。
天保3年(1832年)3月に行われた武芸大会で、象山は父・国善の門弟名簿を藩に提出すると、序列に誤りがあるとして藩の年長者に注意を受けましたが、象山は絶対に間違いはないと頑として注意を聞き入れず、この事を聞いた藩主・幸貫の不興を買い、4月11日に閉門蟄居を命じられてしまいました。
閉門蟄居の間に象山の父・国善の病が重くなり、8月17日付で藩主・幸貫は象山を赦免しました。
象山は相手が誰であっても自分の信念を曲げない人物だった事がよくわかる逸話ですね。
天保4年(1833年)11月、象山は江戸への遊学が許され、儒学の第一人者と言われていた佐藤一斎に詩文・朱子学を学ぶと突出した才能から山田方谷と並ぶ「佐門の二傑」と評されるようになりました。
天保10年(1839年)江戸の神田於玉ヶ池で私塾「象山書院」を開いて儒学を指南するほど知識を身につけていたそうです。
天保13年(1842年)松代藩主・真田幸貫が幕府老中兼任で海防掛の任に就くと、象山は顧問として抜擢され、阿片戦争において清国と大英帝国などの海外情勢を研究する任に就きました。
弘化元年(1844年)魏源「海国図志」などを元に「海防八策」を上書した象山は、蘭学修得の必要性を痛感し、オランダ語や西洋式兵学などの習得に励んでいたため、藩主・幸貫から洋学研究の担当者として任命され、日本に西洋砲術を普及させた江川英龍の下で学ぶ事となりました。
象山は大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての地位を確立すると、ガラスの製造や地震予知器の開発にも成功したそうです。
嘉永4年(1851年)象山は江戸に移住して木挽町に西洋の砲術・兵学を教える「五月塾」を開くと、門下生には勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本佐内という幕末の英傑たちが集まりました。
嘉永6年6月3日(1853年)アメリカ海軍の東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリーが率いる艦船4隻が江戸湾の入口となる浦賀に来航した時には、象山は藩の軍議役として浦賀に派遣され門下生の吉田松陰・津田真道らと和戦の得失を論議しました。
象山のまとめた「急務十条」は、江戸幕府老中首座・阿部正弘に奏上されました。

 急務十条
一、堅固の船を備えて水軍を調練すべきこと。
二、防堵(ぼうと)を城東に新築し、相模・房総近海のものを改築すべきこと。
三、志気鋭精・筋骨強壮の者を選び大砲隊を編成すべきこと。
四、慶安(けいあん)度の軍制を改正すべきこと。
五、砲政を定めて広く硝田(しょうでん)を開くべきこと。
六、警急のために将材を選ぶべきこと。
七、その短を捨てその長を用い、その名に従わずその実を講ずべきこと。
八、綱紀を正し、士気を振るうべきこと。
九、大小銃を演習し、四時間断なからしむること。
十、諸藩海防人数、聯事(れんじ)の法をもって編成すべきこと。

のちに提唱される「海軍編成論」の基礎ともいうべきものですね。

嘉永7年(1854年)ペリーが再び浦賀に来航すると、象山門弟の吉田松陰が金子重之輔と漁民の小舟を盗んでペリー艦隊の旗艦・ポーハタン号に乗船し密航を企てましたが、アメリカ側に拒否された上、漕いできた小船も流されてしまったため下田奉行所に自首すると、松陰から相談されていた象山も事件に連座し、伝馬町牢屋敷に投獄され、幕府内では象山・松陰を死罪にする動きもありましたが、旗本・川路聖謨の働きかけにより老中・松平忠固、老中首座・阿部正弘が反対し助命となり、文久2年(1862年)まで、松代での国許蟄居となりました。
元治元年(1864年)象山は一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に招かれて上洛し、公武合体論と開国論を説きましたが、7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の尊皇攘夷派の志士に暗殺されてしまいました。
先見の明があった佐久間象山先生、暗殺されてしまったのは残念です。


参道から見た社殿は、後方に高い建物が一切なくて空が広がり素敵な景観です。
参道の左側には池もあって、散策するのがとても気持ちの良い神社です。


境内に設置された幕末の英雄たちの銅像。
「佐久間象山」「勝海舟」「坂本龍馬」「橋本左内」「吉田松陰」「真田幸貫」「小林虎三郎」
全部で七体の銅像が建てられています。
写真は「勝海舟」「真田幸貫」「佐久間象山」です。


大正2年(1913年)の象山殉難五十年祭を機に神社建立の機運が高まると、地元松代町出身の大審院長・横田秀雄氏を中心に県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって建立が計画されました。
昭和13年(1938年)佐久間象山を主祭神として佐久間象山邸跡地に「象山神社」が創建されました。


「象山神社 社殿」
総桧材桃山式流造の社殿は神社創建時に建立されたそうです。

実は象山、幕末の英傑たちからはあまり評価されていなかったそうです。
勝海舟や高杉晋作からは「法螺吹き」とまで言われています。
ちなみに象山の妻・順子は門下生・吉田松陰の妹で、その年の差はなんと25歳もあったそうです。


書置きで頂いた御朱印。
御朱印は社殿左側の授与所で頂く事が出来ます。
象山神社のほかに「玉依比賣命神社」「祝神社」「中村神社」「白鳥神社」の御朱印も頂く事が出来ます。
※すべて書置きのため枚数に限りがあるので品切れとなっている場合もあります。


「茶室 煙雨亭」
境内の左奥に佐久間象山宅跡があり、その一角には暗殺されるまでの2か月間を過ごした京都木屋町の鴨川畔に建っていた煙雨楼から移築した茶室があります。
象山先生はこのお茶室で幕末の英傑たちと日本の未来を思案していたのかも知れませんね。
2022.07.17 22:05 | comment(0)
松代長國寺
真田信之も眠る、真田幸隆がルーツの松代藩主真田氏代々の菩提寺「真田山長國寺」で直書きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「真田山長國寺」
長野県長野市松代町松代1015-1


「長國寺総門」
真田山長國寺は、天文16年(1547年)信濃小県郡真田荘を領した真田幸隆が居城・松尾城内にあった種月庵跡地に禅僧・伝為晃運を招き創建した長谷寺が起源です。
幸隆開基の長谷寺は、慶長5年(1600年)徳川秀忠と真田昌幸が争った第二次上田合戦の際に戦火に巻き込まれ焼失してしまいました。
そののち長谷寺は再建され、上田藩主となっていた幸隆の孫にあたる昌幸の嫡子・信之により幸隆夫妻と昌幸の墓所として保護されていましたが、元和8年(1622年)に幕府の命令によって真田氏は松代へ転封となったため、長谷寺の6世住職も松代に移り住み、真田山長國寺を開山しました。


「長國寺本堂」
とても迫力のある本堂、昔は一万坪の境内地に多数の伽藍が軒を連ねていたそうですが、度重なる火災によって焼失してしまったそうです。


歴史ゲームや小説などでは真田幸隆(さなだゆきたか)と言われていますが、実際の名前は真田幸綱(さなだゆきつな)が正確な名前だったらしいです。
幸隆は晩年に名乗っていたらしく、出家時に一徳斎幸隆と記されていることから「こうりゅう」と読むのが正しいみたいです。

長谷寺を開山した伝為晃運は、元は上野国後閑にある長源寺の僧侶でした。
天文10年(1541年)5月の海野平の戦いで敗北し上野へ逃れていた真田幸隆は長源寺に寄宿していて、ここで伝為晃運と出会いました。
天文16年(1547年)甲斐の武田晴信(信玄)に臣従して旧領の小県郡真田荘を回復すると、真田氏の本城・松尾城に伝為晃運を招き真田氏の菩提寺として長谷寺を創建しました。
幸隆が上野にいた6年の間に、伝為晃運との強い絆が結ばれたんでしょうね。

海野平の戦い
天文年間初頭、北信濃の村上義清と信濃を狙う甲斐の武田信虎が争いを繰り返す中、上野国の関東管領・山内上杉氏を後ろ盾とする海野棟綱、禰津元直・真田幸隆などの滋野一族が東信濃に勢力を保っていました。
天文10年(1541年)5月、村上義清は代々諏訪大社大祝も務める信濃諏訪郡の国人・諏訪頼重と縁戚関係を結んだ甲斐の武田信虎と同盟を結び、武田氏・諏訪氏と連携して滋野一族の支配下にあった小県郡に侵攻を開始しました。
村上氏との国境に位置する滋野一族惣領家海野氏配下・尾山氏の居城・尾野山城が村上・武田・諏訪の連合軍に攻められ落城すると、5月13日、滋野氏一族と村上氏は神川付近で野戦となりました。
数で圧倒する村上氏に抵抗を続ける滋野氏一族惣領家の海野棟綱は、嫡子・幸義を討取られるなどして敗北しました。
5月23日には海野氏が勢力を置いた小県郡海野庄近くに村上・武田・諏訪の連合軍が迫ったため、海野平で野戦に及びましたが25日に総崩れとなって敗北し、海野棟綱、真田幸隆、禰津元直の息子・政直は関東管領・上杉憲政を頼って上野国吾妻郡に落ち延びました。
禰津元直や幸隆の弟・矢沢頼綱は連合軍に降伏し武田信虎の配下となり、のちに禰津元直の娘は信虎の嫡男・晴信(信玄)の側室として輿入れし「禰津御寮人」と呼ばれていました。


「長國寺本堂の鯱」
本堂の鯱は松代藩の藩庁が置かれていた海津城から移設されたものだそうです。
鯱の土台となるところにあしらわれた真田六文銭がカッコいいですね(^_-)-☆


「長國寺本堂」
明治19年(1886年)に再建された本堂。


「放光殿」
放光殿の裏にある墓地には、松代藩6代藩主・真田幸弘の時代、家老として仕えていた恩田木工民親(おんだもくたみちか)のお墓もあります。
恩田民親は幸弘から財政再建のための藩政改革を任され、「正直」「倹約」を奨励し、強い意志を持って改革を推し進め、前任者が2度も失敗していた藩政改革を成し遂げた人物です。
民親の業績は「日暮硯」という書物にまとめられ、藩政改革のためのお手本としてその写本が武士のみならず庶民にまで広く愛読されていたそうです。


直書きで頂いた御朱印。
御朱印は本堂右側の庫院で頂けます。

有料となりますが真田信之をはじめとする真田氏代々の松代藩主の墓所も見学する事が出来ます。
真田家墓所には真田幸村(信繁)父子の供養碑が建立されています。
大正3年(1914年)に、真田氏11代当主・真田幸正氏によって建立されたそうです。
2022.07.15 21:47 | comment(0)
八龍神社
天慶年間に創建された雨を司る龍神を祀る社「八龍神社」の御朱印を直書きで拝受しました。
2022.07.07参拝

「八龍神社」
茨城県坂東市生子632


「参道入口の鳥居」
朱色に塗られた木造の両部鳥居の後ろには昭和17年(1942年)に地元の名士・片倉七郎翁により奉納された石鳥居が建立されています。


「拝殿」
平成11年(1999年)に再建された拝殿です。

八龍神社の創建は天慶年間(938年~947年)と伝わります。
この頃、坂東に拠点を置いた平将門による承平天慶の乱が起こり、将門は関東全域を手中に収め新皇と自称して朝廷と対立しました。
天慶3年(940年)2月14日、将門は朝廷の派遣した追討軍との戦で流れ矢が額に刺さり討死してしまいました。
将門は荒地だった坂東の地を豊かにするため馬牧の経営と製鉄による農具の開発などを行って、農民たちと農地の開墾を進めたため農民からの信頼が篤かったとされています。
岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた将門のあとに当地を領した領主によって、農民の支持を集めるために雨を司る神「高闇龗命」を祀る神社が建立されたのかも知れません。
寛文2年(1662年)には下総関宿藩第2代藩主・板倉重郷より社領・七反余歩が年貢免除となる除地として認められました。
享保4年(1719年)神祇権大副・吉田兼敬より正一位八龍神の額面が寄進されたそうです。
吉田家は寛文5年(1665年)7月に江戸幕府が発布した「諸社禰宜神主法度」の中で「無位の社人、白張を着すべし。その他の装束は、吉田の許状をもつてこれを着すべき事。」と記されるほどの権威を持った神道家でした。
このため全国の神職は上京し、吉田家に神道裁許状を求めたため、諸社禰宜神主法度発布後は吉田家がほぼ全ての神社の神職を管理下に置きました。


「拝殿の扁額」
社殿には金色の文字で社号が刻まれた立派な扁額が掲げられています。



「古い社殿」
広い境内には古い社殿が建っていました。
境内社なのか八龍神社の旧社殿なのかはわかりませんでしたが、かなり朽ちている社殿には彩色された豪華な彫刻が施されていました。
このまま朽ち果てさせてしまうのは、なんだか寂しいですね(*‘ω‘ *)


八龍神社の御朱印は沓掛香取神社で頂く事が出来ます。
2022.07.11 23:57 | comment(0)
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