【長谷寺(古河長谷観音)】ママ必見!『虫封じ』のご祈祷と、歴史を感じる御朱印巡り
明観山 観音院 長谷寺(みょうかんざん かんのんいん はせでら)で御朱印をいただきました。

「明観山 観音院 長谷寺(古河長谷観音)」
所在地:茨城県古河市長谷町5-1
駐車場:あり(無料)
アクセス:JR宇都宮線「古河駅」から徒歩約15分、東武日光線「新古河駅」から徒歩約15分
今日は茨城県古河市にある「古河の長谷観音」こと、長谷寺にお参りしてきたので、その素敵な由来やエピソードをシェアしますね。
📝 参拝情報
拝観料: 無料(境内自由)
境内参拝(開門時間): 6:00 ~ 17:00
境内は自由に入ることができます。
お守り・御朱印の授与: 9:00 ~ 12:00 / 13:00 ~ 16:30
お昼休憩(12:00〜13:00)があるため、この時間帯は窓口が閉まりますのでご注意ください。
ご祈祷の受付: 9:00 ~ 16:00
祈願の休業: 12月18日(しまいの観音) ~ 12月31日
定休日: 無休
正月期間などは時間が前後する場合があるため、詳細は公式古河長谷観音公式㏋でご確認ください。
🖌️ 御朱印の種類と納経料
・通常御朱印(十一面観世音)
御本尊である十一面観世音菩薩の名称が墨書きされた、もっとも一般的な御朱印です。
・坂東三十三観音霊場の御朱印
坂東三十三観音の霊場ではありませんが、古河周辺の巡礼や地域的な御朱印巡りの一部として扱われることがあります。
直書きと書き置き: 基本的には帳面への「直書き」で対応いただけますが、混雑時や不在時には「書き置き(紙の御朱印)」となる場合があります。
納経料(料金)1件:300円
授与場所;本堂内右側の授与所にてご対応いただけます。
※納経料は変動する場合があるため、最新情報は当日社務所で確認してくださいね。

「古河長谷観音」
🌸 古河の街に息づく「長谷観音」の物語
古河駅からのんびり歩いて約15分。
住宅街の中にふっと現れる「長谷観音」は、地元の方に「はせかんさま」と呼ばれて親しまれている、とっても温かい雰囲気のお寺なんです。
実はここ、ただのお寺じゃないんですよ。
歴史をたどると、なんと室町時代までさかのぼります。
👉 鎌倉からやってきた観音様
このお寺の始まりは明応2年(1493年)。
当時の古河公方(足利成氏)が、
「古河城の鬼門(北東)を守ってもらおう!」
と考えて、鎌倉の有名な長谷寺から十一面観音様を勧請(お迎え)したのがきっかけだと言われています。
「日本三大長谷観音」の一つに数えられることもあるそうで、歴史の重みを感じますよね。

👉 本堂(観音堂)の変遷
現在お参りできる本堂は、江戸時代末期の文政から天保年間(1818年〜1844年頃)にかけて再建されたものと伝えられています。
それ以前の建物は、度重なる火災や古河城の改築などの影響を受けながら、歴代の古河城主によって大切に守り継がれてきました。
🏯「古河公方」と関係が深い
古河長谷観音は、室町時代に関東の中心となった
「初代古河公方・足利成氏」
が拠点とした古河の地にあります。
古河公方の時代、この周辺は政治・軍事の重要拠点で、寺院も単なる信仰の場ではなく
「権力者の祈願所・精神的支柱」
としての役割を担っていました。
⚔️ 戦乱をくぐり抜けた観音様
古河は戦国時代、
「古河公方 vs 関東管領上杉氏」
「後北条氏の進出」
などで何度も戦場となった場所。
それでも観音信仰は途絶えず、現在まで続いているのが大きな特徴です。
「戦の中でも守られてきた観音様」
というストーリーが隠れています。
🌸 “地元密着型”の観音様
長谷観音というと奈良や鎌倉が有名ですが、古河の長谷観音は
「完全に地元に根付いた“生活の観音様”」
という雰囲気が強いです。
観光地というよりも
・安産祈願
・子育て
・日々の願い
など、生活に寄り添う存在。
その派手さはないものの、戦乱の時代を越えて人々の祈りを受け止め続けてきた、
“静かな強さ”を感じる観音様です。

「本堂内の外陣(げじん)」
ここでお参りをさせていただきます。
江戸時代の人たちも、今の私たちと同じように、このお堂を見上げて願い事をしてきたんだなと思うと、なんだか感慨深いです。
御朱印やお守りは右側の授与所にてご対応いただけます。
無人となっていることが多いので、授与所右端のインターフォンでお呼びください。
💡 ポイント!
「外陣(げじん)」とは、一般の参拝者が立ち入りお参りをするスペースのことを指します。
👉「虫封じ」の不思議な力
古河の長谷観音といえば、特にお子さんがいるママ・パパの間で有名なのが「虫封じ」です。
「虫」といっても昆虫のことではなく、子供の夜泣きやかんの虫(イライラ)のこと。
関東では珍しいこのご祈祷、昔から
「ここの観音様にお願いすると、子供がすくすく穏やかに育つ」
と評判なんです。
境内には、子供たちの健やかな成長を願う優しい空気が流れていました。
👉 街を見守る「おじいちゃん」のような存在
かつては古河城の守護神だった観音様ですが、今は地域の人たちの日常に溶け込んでいます。
私が訪れた時も、散歩途中にふらっと立ち寄って手を合わせる方の姿が。派手すぎず、でも凛とした佇まいは、まるで街の歴史をずっと見守ってきた「優しいおじいちゃん」のような安心感があります。

「直書きでいただいた御朱印」
🥄おすすめグルメスポットをご紹介します!
「マタタビ食堂」(Matatabi Shokudo)
長谷寺から徒歩約10分ほどの場所にある、100年以上の歴史を持つ蔵を改装したおしゃれなイタリアンバルです。
天井が高く梁が剥き出しになった開放感たっぷりの空間は、女子旅のランチに最適。
地元の新鮮な野菜をふんだんに使ったパスタやピザが人気で、前菜付きのリーズナブルなランチセットが評判です。
場所:茨城県古河市本町1丁目4-10
🙏 参拝後記
御本尊の十一面観音様は、高さが2メートル以上もあって、見上げると包み込まれるようなパワーを感じました。
お参りの後は、力強い筆致の御朱印をいただいて、心もお腹(近くに美味しい古河グルメもたくさん!)もいっぱいに。
歴史好きさんはもちろん、
「最近ちょっと心がザワザワするな」
という方や、お子さんの健やかな成長を願う方にも、ぜひ訪れてほしいパワースポットです。

「明観山 観音院 長谷寺(古河長谷観音)」
所在地:茨城県古河市長谷町5-1
駐車場:あり(無料)
アクセス:JR宇都宮線「古河駅」から徒歩約15分、東武日光線「新古河駅」から徒歩約15分
今日は茨城県古河市にある「古河の長谷観音」こと、長谷寺にお参りしてきたので、その素敵な由来やエピソードをシェアしますね。
📝 参拝情報
拝観料: 無料(境内自由)
境内参拝(開門時間): 6:00 ~ 17:00
境内は自由に入ることができます。
お守り・御朱印の授与: 9:00 ~ 12:00 / 13:00 ~ 16:30
お昼休憩(12:00〜13:00)があるため、この時間帯は窓口が閉まりますのでご注意ください。
ご祈祷の受付: 9:00 ~ 16:00
祈願の休業: 12月18日(しまいの観音) ~ 12月31日
定休日: 無休
正月期間などは時間が前後する場合があるため、詳細は公式古河長谷観音公式㏋でご確認ください。
🖌️ 御朱印の種類と納経料
・通常御朱印(十一面観世音)
御本尊である十一面観世音菩薩の名称が墨書きされた、もっとも一般的な御朱印です。
・坂東三十三観音霊場の御朱印
坂東三十三観音の霊場ではありませんが、古河周辺の巡礼や地域的な御朱印巡りの一部として扱われることがあります。
直書きと書き置き: 基本的には帳面への「直書き」で対応いただけますが、混雑時や不在時には「書き置き(紙の御朱印)」となる場合があります。
納経料(料金)1件:300円
授与場所;本堂内右側の授与所にてご対応いただけます。
※納経料は変動する場合があるため、最新情報は当日社務所で確認してくださいね。

「古河長谷観音」
🌸 古河の街に息づく「長谷観音」の物語
古河駅からのんびり歩いて約15分。
住宅街の中にふっと現れる「長谷観音」は、地元の方に「はせかんさま」と呼ばれて親しまれている、とっても温かい雰囲気のお寺なんです。
実はここ、ただのお寺じゃないんですよ。
歴史をたどると、なんと室町時代までさかのぼります。
👉 鎌倉からやってきた観音様
このお寺の始まりは明応2年(1493年)。
当時の古河公方(足利成氏)が、
「古河城の鬼門(北東)を守ってもらおう!」
と考えて、鎌倉の有名な長谷寺から十一面観音様を勧請(お迎え)したのがきっかけだと言われています。
「日本三大長谷観音」の一つに数えられることもあるそうで、歴史の重みを感じますよね。

👉 本堂(観音堂)の変遷
現在お参りできる本堂は、江戸時代末期の文政から天保年間(1818年〜1844年頃)にかけて再建されたものと伝えられています。
それ以前の建物は、度重なる火災や古河城の改築などの影響を受けながら、歴代の古河城主によって大切に守り継がれてきました。
🏯「古河公方」と関係が深い
古河長谷観音は、室町時代に関東の中心となった
「初代古河公方・足利成氏」
が拠点とした古河の地にあります。
古河公方の時代、この周辺は政治・軍事の重要拠点で、寺院も単なる信仰の場ではなく
「権力者の祈願所・精神的支柱」
としての役割を担っていました。
⚔️ 戦乱をくぐり抜けた観音様
古河は戦国時代、
「古河公方 vs 関東管領上杉氏」
「後北条氏の進出」
などで何度も戦場となった場所。
それでも観音信仰は途絶えず、現在まで続いているのが大きな特徴です。
「戦の中でも守られてきた観音様」
というストーリーが隠れています。
🌸 “地元密着型”の観音様
長谷観音というと奈良や鎌倉が有名ですが、古河の長谷観音は
「完全に地元に根付いた“生活の観音様”」
という雰囲気が強いです。
観光地というよりも
・安産祈願
・子育て
・日々の願い
など、生活に寄り添う存在。
その派手さはないものの、戦乱の時代を越えて人々の祈りを受け止め続けてきた、
“静かな強さ”を感じる観音様です。

「本堂内の外陣(げじん)」
ここでお参りをさせていただきます。
江戸時代の人たちも、今の私たちと同じように、このお堂を見上げて願い事をしてきたんだなと思うと、なんだか感慨深いです。
御朱印やお守りは右側の授与所にてご対応いただけます。
無人となっていることが多いので、授与所右端のインターフォンでお呼びください。
💡 ポイント!
「外陣(げじん)」とは、一般の参拝者が立ち入りお参りをするスペースのことを指します。
👉「虫封じ」の不思議な力
古河の長谷観音といえば、特にお子さんがいるママ・パパの間で有名なのが「虫封じ」です。
「虫」といっても昆虫のことではなく、子供の夜泣きやかんの虫(イライラ)のこと。
関東では珍しいこのご祈祷、昔から
「ここの観音様にお願いすると、子供がすくすく穏やかに育つ」
と評判なんです。
境内には、子供たちの健やかな成長を願う優しい空気が流れていました。
👉 街を見守る「おじいちゃん」のような存在
かつては古河城の守護神だった観音様ですが、今は地域の人たちの日常に溶け込んでいます。
私が訪れた時も、散歩途中にふらっと立ち寄って手を合わせる方の姿が。派手すぎず、でも凛とした佇まいは、まるで街の歴史をずっと見守ってきた「優しいおじいちゃん」のような安心感があります。

「直書きでいただいた御朱印」
🥄おすすめグルメスポットをご紹介します!
「マタタビ食堂」(Matatabi Shokudo)
長谷寺から徒歩約10分ほどの場所にある、100年以上の歴史を持つ蔵を改装したおしゃれなイタリアンバルです。
天井が高く梁が剥き出しになった開放感たっぷりの空間は、女子旅のランチに最適。
地元の新鮮な野菜をふんだんに使ったパスタやピザが人気で、前菜付きのリーズナブルなランチセットが評判です。
場所:茨城県古河市本町1丁目4-10
🙏 参拝後記
御本尊の十一面観音様は、高さが2メートル以上もあって、見上げると包み込まれるようなパワーを感じました。
お参りの後は、力強い筆致の御朱印をいただいて、心もお腹(近くに美味しい古河グルメもたくさん!)もいっぱいに。
歴史好きさんはもちろん、
「最近ちょっと心がザワザワするな」
という方や、お子さんの健やかな成長を願う方にも、ぜひ訪れてほしいパワースポットです。
2025.03.28 13:33 | comment(0)
【結城諏訪神社】“勝たせるために作られた神社”|平将門討伐と武将の信仰
結城諏訪神社で御朱印をいただきました。

住所: 〒307-0021 茨城県結城市上山川161
社務所受付: 9:00〜16:30
ここ、最初から“勝つための神社”
茨城県結城市にある
👉 結城諏訪神社
一見、静かな神社ですが――
👉 ここは「戦いに勝つため」に作られた神社です。
⚔️ 結城諏訪神社の起源(ここが本質)
創建は940年(天慶3年)
当時👇
👉 平将門 が関東で反乱を起こす
これに対して👇
👉 藤原秀郷 が討伐を命じられる
🪤 そこでやったこと
秀郷は👇
👉 戦う前に神頼み
信濃の諏訪大社から神を勧請
この地で必勝祈願
👉 そして結果👇
👉 将門討伐に成功
→ その感謝として神社を創建
💥 つまり
👉 「勝ったからできた神社」

🧠 ご祭神とご利益
建御名方命(軍神・勝負の神)
事代主命(商売・恵比寿神)
👉 だから👇
勝負運+商売運のハイブリッド神社
⚔️ 武将たちのリアルな信仰
この神社、実はかなり戦国的👇
結城氏など歴代武将が崇敬
戦の前に祈願
勝利後に奉納
👉 源頼朝の奥州攻めでも祈願された記録あり
🧠 戦国視点で言うと
👉 「勝つためのルーティン」だった神社
🪨 見どころ①:勝負の岩
境内にある有名スポット👇
👉 勝負の岩
将門軍の矢から秀郷を守ったと伝承
触れると力をもらえる
👉 完全に“戦のパワースポット”
🔥 見どころ②:万事必勝の神
この神社のキャッチ👇
👉 万事必勝
受験
仕事
勝負事
👉 現代でも“勝ちたい人”が集まる
🏺 見どころ③:供養の神社でもある
意外なポイント👇
人形供養
思い出の品の供養
👉 「勝つ」だけじゃなく
「区切りをつける場所」でもある
⚔️ 戦国マニア視点で見ると
ここかなり深い👇
戦う前に勝ちを作る
神を使って流れを変える
戦略+信仰の融合
👉 要するに
“戦う前に勝つための場所”
【平将門 vs 藤原秀郷】関東を揺るがした反乱と討伐|“新皇”誕生とその最期
■ 関東で“天皇を名乗った男”がいた
平安時代の関東で――
👉 自らを「新皇」と名乗った武将がいた
その名は
👉 平将門
そしてそれを討ったのが
👉 藤原秀郷
これはただの反乱ではなく
👉 “国家に対する反逆”の戦いだった。
⚔️ 将門の乱とは?
時代:平安時代(939年〜940年)
場所:関東一帯
■ なぜ将門は反乱を起こしたのか
もともと将門は関東の有力武士。
しかし👇
一族内の争い
土地トラブル
朝廷への不満
👉 徐々に対立が拡大
💥 決定的な行動
将門はついに👇
常陸・下野・上野などを制圧
国府を占拠
自らを「新皇」と名乗る
👉 完全に独立国家状態
🧠 なぜここまで強かった?
✔ 地元支配力
関東の武士団を掌握
✔ スピード戦
一気に拠点を制圧
👉 当時の関東では無敵状態
⚔️ 討伐に動いた男・藤原秀郷
ここで登場👇
👉 藤原秀郷
朝廷側の武将
弓の名手
実戦経験豊富
👉 ガチの武人
🪤 決戦の流れ
■ 戦う前にやったこと
秀郷は👇
👉 神頼み
諏訪神を勧請
戦勝祈願
👉 これが後の
「結城諏訪神社」につながる
■ 決戦(940年)
両軍が激突。
💥 勝敗の決め手
👉 秀郷の一矢
将門は討たれ、戦いは終結。
⚰️ 将門の最期と伝説
討ち取られる
首は京都へ送られる
しかし👇
👉 首が飛んで関東に戻ったという伝説
(現在の「将門塚」へ)
🧠 この戦いの本質
✔ 日本初の“地方独立戦争”
地方武士 vs 中央政権
✔ 武士の時代の前触れ
武力で支配する流れ
👉 鎌倉時代につながる
⚔️ 戦国マニア視点で見ると
この戦い、かなり重要👇
関東=独立志向の強さ
武士=力で支配
朝廷=まだ弱い
👉 要するに
“戦国時代の原型”
🧩 面白ポイント
将門=カリスマ型リーダー
秀郷=実戦型プロ武将
👉 タイプの違う2人の対決
平将門の乱は939年に関東で起きた反乱で、将門は自らを「新皇」と名乗り独立政権を築いた。
これに対し藤原秀郷が討伐に動き、940年に将門を討ち取ることで乱は終結。
この戦いは地方武士と中央政権の対立を象徴し、後の武士の時代につながる重要な出来事となった。

📍 行ってみた感想
派手さはないけど、妙に“勝負の気配”がある神社。
ここで祈った武将たちのリアルさが伝わってくる。
結城諏訪神社は940年、藤原秀郷が平将門討伐の戦勝祈願を行ったことを起源とする神社である。
信濃諏訪大社から神を勧請し、勝利後に社殿を建立したことから「万事必勝の神」として信仰を集めてきた。
歴代武将も戦勝祈願を行い、現在も勝負運や諸願成就の神社として多くの参拝者が訪れる。

住所: 〒307-0021 茨城県結城市上山川161
社務所受付: 9:00〜16:30
ここ、最初から“勝つための神社”
茨城県結城市にある
👉 結城諏訪神社
一見、静かな神社ですが――
👉 ここは「戦いに勝つため」に作られた神社です。
⚔️ 結城諏訪神社の起源(ここが本質)
創建は940年(天慶3年)
当時👇
👉 平将門 が関東で反乱を起こす
これに対して👇
👉 藤原秀郷 が討伐を命じられる
🪤 そこでやったこと
秀郷は👇
👉 戦う前に神頼み
信濃の諏訪大社から神を勧請
この地で必勝祈願
👉 そして結果👇
👉 将門討伐に成功
→ その感謝として神社を創建
💥 つまり
👉 「勝ったからできた神社」

🧠 ご祭神とご利益
建御名方命(軍神・勝負の神)
事代主命(商売・恵比寿神)
👉 だから👇
勝負運+商売運のハイブリッド神社
⚔️ 武将たちのリアルな信仰
この神社、実はかなり戦国的👇
結城氏など歴代武将が崇敬
戦の前に祈願
勝利後に奉納
👉 源頼朝の奥州攻めでも祈願された記録あり
🧠 戦国視点で言うと
👉 「勝つためのルーティン」だった神社
🪨 見どころ①:勝負の岩
境内にある有名スポット👇
👉 勝負の岩
将門軍の矢から秀郷を守ったと伝承
触れると力をもらえる
👉 完全に“戦のパワースポット”
🔥 見どころ②:万事必勝の神
この神社のキャッチ👇
👉 万事必勝
受験
仕事
勝負事
👉 現代でも“勝ちたい人”が集まる
🏺 見どころ③:供養の神社でもある
意外なポイント👇
人形供養
思い出の品の供養
👉 「勝つ」だけじゃなく
「区切りをつける場所」でもある
⚔️ 戦国マニア視点で見ると
ここかなり深い👇
戦う前に勝ちを作る
神を使って流れを変える
戦略+信仰の融合
👉 要するに
“戦う前に勝つための場所”
【平将門 vs 藤原秀郷】関東を揺るがした反乱と討伐|“新皇”誕生とその最期
■ 関東で“天皇を名乗った男”がいた
平安時代の関東で――
👉 自らを「新皇」と名乗った武将がいた
その名は
👉 平将門
そしてそれを討ったのが
👉 藤原秀郷
これはただの反乱ではなく
👉 “国家に対する反逆”の戦いだった。
⚔️ 将門の乱とは?
時代:平安時代(939年〜940年)
場所:関東一帯
■ なぜ将門は反乱を起こしたのか
もともと将門は関東の有力武士。
しかし👇
一族内の争い
土地トラブル
朝廷への不満
👉 徐々に対立が拡大
💥 決定的な行動
将門はついに👇
常陸・下野・上野などを制圧
国府を占拠
自らを「新皇」と名乗る
👉 完全に独立国家状態
🧠 なぜここまで強かった?
✔ 地元支配力
関東の武士団を掌握
✔ スピード戦
一気に拠点を制圧
👉 当時の関東では無敵状態
⚔️ 討伐に動いた男・藤原秀郷
ここで登場👇
👉 藤原秀郷
朝廷側の武将
弓の名手
実戦経験豊富
👉 ガチの武人
🪤 決戦の流れ
■ 戦う前にやったこと
秀郷は👇
👉 神頼み
諏訪神を勧請
戦勝祈願
👉 これが後の
「結城諏訪神社」につながる
■ 決戦(940年)
両軍が激突。
💥 勝敗の決め手
👉 秀郷の一矢
将門は討たれ、戦いは終結。
⚰️ 将門の最期と伝説
討ち取られる
首は京都へ送られる
しかし👇
👉 首が飛んで関東に戻ったという伝説
(現在の「将門塚」へ)
🧠 この戦いの本質
✔ 日本初の“地方独立戦争”
地方武士 vs 中央政権
✔ 武士の時代の前触れ
武力で支配する流れ
👉 鎌倉時代につながる
⚔️ 戦国マニア視点で見ると
この戦い、かなり重要👇
関東=独立志向の強さ
武士=力で支配
朝廷=まだ弱い
👉 要するに
“戦国時代の原型”
🧩 面白ポイント
将門=カリスマ型リーダー
秀郷=実戦型プロ武将
👉 タイプの違う2人の対決
平将門の乱は939年に関東で起きた反乱で、将門は自らを「新皇」と名乗り独立政権を築いた。
これに対し藤原秀郷が討伐に動き、940年に将門を討ち取ることで乱は終結。
この戦いは地方武士と中央政権の対立を象徴し、後の武士の時代につながる重要な出来事となった。

📍 行ってみた感想
派手さはないけど、妙に“勝負の気配”がある神社。
ここで祈った武将たちのリアルさが伝わってくる。
結城諏訪神社は940年、藤原秀郷が平将門討伐の戦勝祈願を行ったことを起源とする神社である。
信濃諏訪大社から神を勧請し、勝利後に社殿を建立したことから「万事必勝の神」として信仰を集めてきた。
歴代武将も戦勝祈願を行い、現在も勝負運や諸願成就の神社として多くの参拝者が訪れる。
2023.11.17 15:00 | comment(0)
【山王山東昌寺】戦国乱世の記憶を刻む|古河公方の重臣・簗田氏ゆかりの古刹を訪ねて
山王山東昌寺で御朱印を頂きました。
参拝日:2023.05.15

「六国峰山王山東昌禅寺」
所在地:茨城県猿島郡五霞町山王山827-1
駐車場:あり(無料)
アクセス:東武日光線「南栗橋駅」から約5.7km、朝日自動車バス「西谷」バス停より徒歩約20分
茨城県の南西端、利根川と江戸川に囲まれた五霞町。
この静かな町に、戦国時代の熱い歴史を今に伝える古刹があります。
それが今回ご紹介する六国山 東昌寺です。
■関宿城主・簗田氏の菩提寺としての歩み
東昌寺の歴史を語る上で欠かせないのが、室町・戦国時代にこの地を治めた有力豪族、簗田(やなだ)氏です。
東昌寺は15世紀中頃、関宿城(現在の千葉県野田市)を拠点とした簗田氏の菩提寺として建立されました。
簗田氏は、関東の足利将軍家である「古河公方」の筆頭重臣として活躍した一族です。
東昌寺は、その一族の精神的支柱として、乱世の中で重要な役割を果たしてきました。

[楼門]
元禄3年(1690年)本堂新築に伴い、関宿城主・牧野成貞の妻より寄進されたそうで、楼門の天井に描かれた龍は、狩野派の流れを汲む絵師の作と伝わります。

「鐘楼堂」
■時代を見守ってきた至宝
境内に響く鐘の音も、実は大変貴重な歴史の証人です。
境内にある梵鐘は、元亨元年(1321年)に下野国(現在の栃木県)の鋳物師によって制作されたものと伝えられています。
中世の鋳造技術を今に伝える貴重な資料として、茨城県指定文化財に登録されています。

「本堂」
■東昌寺について
永享元年(1429年)即庵宗覚が下総国葛飾郡山王山に立ち寄り、夜に座禅をしていると老人が現れ、二人は問答を繰り返したそうです。
最後に老人は山王権現である事を即庵に明かし、自らは下総国・武蔵国など周辺六国を守護する事を誓い、即庵にこの地に留まるように求めると立ち去りました。
即庵は山王権現の求めに応じて山王山に「山王山六国寺」を建立しました。
嘉吉元年(1441年)鎌倉公方・足利持氏家臣・簗田持助が永享11年(1439年)に亡くなった父・簗田満助の菩提を弔うため諸堂を再造営、満助の法号より寺号を「東昌寺」に改称したとされます。
文明8年(1476年)古河公方足利氏の家臣で下総国水海城主・簗田持助が寄進した梵鐘が現在も残されています。
■北条氏照も滞在した?
永禄11(1568年)頃、栗橋城を接収した北条氏照が関宿城を攻める際、付城(敵の城を包囲し、兵糧攻めにする目的で築かれた一時的な陣城)として築いた不動山城(場所不明)と山王山城があります。
この山王山城こそが、東昌寺を中心に要塞化して築かれた城と考えられ、境内の周囲には土塁跡や堀の跡が残っています。
戦国時代に寺院が陣城や砦として使用されることは、決して珍しいことではありませんでした。
寺院は高台にあることが多く、建物や石垣、周囲の地形(堀や崖)が防御施設としてそのまま利用できたため、短期間で強力な拠点に改修できたので好都合だったのです。
もしかしたら北条氏照も、この山王山城に滞在していたかもしれませんね。

本堂に掲げられた古い扁額
■家康公ゆかりの伝説と「檜御扇子」
戦国が終わり江戸の世が始まる際にも、東昌寺は歴史の表舞台に登場します。
徳川家康がこの地を訪れた際に東昌寺に宿泊したという伝承が残っています。
寺には、家康公から贈られたとされる「東照神君檜御扇子(とうしょうしんくんひのきごせんす)」が町指定文化財として大切に保管されています。

ご住職より直書きで拝受した御朱印。
ご住職はとても気さくな方で私達夫婦を堂内にお招き下さり奥様がお茶を振舞って下さいました。
納経料は決まっていませんがお気持ちで1000円を納めさせて頂きました。
■歴史の息吹を感じる静かなひととき
かつて関宿城を中心とした北関東の覇権争いを見守り、徳川幕府の黎明期をも繋いできた東昌寺。
現在は、のどかな田園風景の中に佇む静かなお寺ですが、一歩境内に足を踏み入れれば、古河公方を支えた武士たちの情熱や、家康公が歩いた時代の空気を感じることができます。
歴史ファンならずとも、五霞町を訪れた際にはぜひ立ち寄ってみたい、深みのあるスポットです。

ご住職が半紙に書いて下さったものを額に入れて飾っています。
参拝日:2023.05.15

「六国峰山王山東昌禅寺」
所在地:茨城県猿島郡五霞町山王山827-1
駐車場:あり(無料)
アクセス:東武日光線「南栗橋駅」から約5.7km、朝日自動車バス「西谷」バス停より徒歩約20分
茨城県の南西端、利根川と江戸川に囲まれた五霞町。
この静かな町に、戦国時代の熱い歴史を今に伝える古刹があります。
それが今回ご紹介する六国山 東昌寺です。
■関宿城主・簗田氏の菩提寺としての歩み
東昌寺の歴史を語る上で欠かせないのが、室町・戦国時代にこの地を治めた有力豪族、簗田(やなだ)氏です。
東昌寺は15世紀中頃、関宿城(現在の千葉県野田市)を拠点とした簗田氏の菩提寺として建立されました。
簗田氏は、関東の足利将軍家である「古河公方」の筆頭重臣として活躍した一族です。
東昌寺は、その一族の精神的支柱として、乱世の中で重要な役割を果たしてきました。

[楼門]
元禄3年(1690年)本堂新築に伴い、関宿城主・牧野成貞の妻より寄進されたそうで、楼門の天井に描かれた龍は、狩野派の流れを汲む絵師の作と伝わります。

「鐘楼堂」
■時代を見守ってきた至宝
境内に響く鐘の音も、実は大変貴重な歴史の証人です。
境内にある梵鐘は、元亨元年(1321年)に下野国(現在の栃木県)の鋳物師によって制作されたものと伝えられています。
中世の鋳造技術を今に伝える貴重な資料として、茨城県指定文化財に登録されています。

「本堂」
■東昌寺について
永享元年(1429年)即庵宗覚が下総国葛飾郡山王山に立ち寄り、夜に座禅をしていると老人が現れ、二人は問答を繰り返したそうです。
最後に老人は山王権現である事を即庵に明かし、自らは下総国・武蔵国など周辺六国を守護する事を誓い、即庵にこの地に留まるように求めると立ち去りました。
即庵は山王権現の求めに応じて山王山に「山王山六国寺」を建立しました。
嘉吉元年(1441年)鎌倉公方・足利持氏家臣・簗田持助が永享11年(1439年)に亡くなった父・簗田満助の菩提を弔うため諸堂を再造営、満助の法号より寺号を「東昌寺」に改称したとされます。
文明8年(1476年)古河公方足利氏の家臣で下総国水海城主・簗田持助が寄進した梵鐘が現在も残されています。
■北条氏照も滞在した?
永禄11(1568年)頃、栗橋城を接収した北条氏照が関宿城を攻める際、付城(敵の城を包囲し、兵糧攻めにする目的で築かれた一時的な陣城)として築いた不動山城(場所不明)と山王山城があります。
この山王山城こそが、東昌寺を中心に要塞化して築かれた城と考えられ、境内の周囲には土塁跡や堀の跡が残っています。
戦国時代に寺院が陣城や砦として使用されることは、決して珍しいことではありませんでした。
寺院は高台にあることが多く、建物や石垣、周囲の地形(堀や崖)が防御施設としてそのまま利用できたため、短期間で強力な拠点に改修できたので好都合だったのです。
もしかしたら北条氏照も、この山王山城に滞在していたかもしれませんね。

本堂に掲げられた古い扁額
■家康公ゆかりの伝説と「檜御扇子」
戦国が終わり江戸の世が始まる際にも、東昌寺は歴史の表舞台に登場します。
徳川家康がこの地を訪れた際に東昌寺に宿泊したという伝承が残っています。
寺には、家康公から贈られたとされる「東照神君檜御扇子(とうしょうしんくんひのきごせんす)」が町指定文化財として大切に保管されています。

ご住職より直書きで拝受した御朱印。
ご住職はとても気さくな方で私達夫婦を堂内にお招き下さり奥様がお茶を振舞って下さいました。
納経料は決まっていませんがお気持ちで1000円を納めさせて頂きました。
■歴史の息吹を感じる静かなひととき
かつて関宿城を中心とした北関東の覇権争いを見守り、徳川幕府の黎明期をも繋いできた東昌寺。
現在は、のどかな田園風景の中に佇む静かなお寺ですが、一歩境内に足を踏み入れれば、古河公方を支えた武士たちの情熱や、家康公が歩いた時代の空気を感じることができます。
歴史ファンならずとも、五霞町を訪れた際にはぜひ立ち寄ってみたい、深みのあるスポットです。

ご住職が半紙に書いて下さったものを額に入れて飾っています。
2023.05.18 18:16 | comment(0)
