下妻城主・多賀谷重経、小室藩主・伊奈忠次からも崇敬を集めた茨城県下屈指の桜の名所「東蕗田天満社」で直書きの七夕限定見開き御朱印を拝受しました。
比較的広めの駐車場も完備されていてお参りしやすい神社でした。
2022.07.07参拝
「東蕗田天満社」
茨城県結城郡八千代町東蕗田242
「裏参道入口の石鳥居」
裏参道入口となる石鳥居、境内まで約200m桜並木が続きます。
「裏参道の鳥居と桜並木」
桜並木が続く参道は、春には多くの参拝者が訪れる県下屈指の桜の名所として有名です。
朱塗りの鳥居は木造で、管理人が訪問した際には根元が朽ちていました。
早めに修理した方がいいかも・・・(;^_^A
「夫婦杉」
境内には夫婦杉と呼ばれる大きな杉の木が立っています。
この杉の木は根元が繋がっていて、縁結び・夫婦和合の象徴となっています。
「拝殿」
拝殿脇には七夕という事もあって飾りつけされた笹の木が立てられていました。
東蕗田天満社の創建は正応元年(1288年)2月18日、北野天満宮より御霊を分祀され創建されたと伝わります。
主祭神は学問の神様として有名な菅原道真公で、受験シーズンには多くの参拝者で賑うそうです。
記録には古河公方足利家より剣一振が奉献されていたり、戦国末期には下妻城主・多賀谷重経より卿太刀一振が奉納されたりと、武家からも崇敬されていた事がわかります。
慶長9年(1605年)11月30日には武蔵小室藩初代藩主・伊奈忠次より墨印地三石を拝領しているそうです。
多賀谷氏館跡(埼玉県加須市 大福寺 2010.07.21旦那撮影)
平安時代末期から鎌倉時代に道智頼基の子・光基を祖とする多賀谷氏が築いた居館です。
多賀谷氏は武蔵国埼玉郡騎西庄多賀谷郷の地頭として武蔵七党野与党に属し、源頼朝上洛の髄兵や御弓始の射手として活躍しました。
宝徳3年(1451年)享徳の乱で多賀谷氏家は、第5代鎌倉公方(初代古河公方)足利成氏の命令により関東管領・上杉憲忠の鎌倉西御門館を襲撃して憲忠を討取る武功を挙げ、成氏より常陸国下妻三十三郷を与えられ、康正元年(1455年)から大宝沼の岸に下妻城の築城を開始しました。
寛正2年(1461年)氏家は下妻城が完成すると常陸国に移り住んだため当地の館は廃され、以降下妻城が多賀谷氏代々の居城となりました。
多賀谷重経
永禄元年(1558年)結城氏の傘下あった多賀谷政経の子として誕生し、天正4年(1576年)父の死により家督を継ぎました。
結城四天王の筆頭として名を馳せましたが結城氏から独立を図り、上杉謙信や佐竹義重と結んで小田氏・岡見氏を攻撃、牛久地方への進出を果たし、所領は20万石にもなりました。
軍事力も佐竹氏の鉄砲隊と並ぶ規模の1000挺の鉄砲隊を配備するほど増強されていたそうです。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参戦し北条氏方の天神城を攻略するなど活躍したため所領を安堵されましたが、秀吉の命令で再び結城氏の家臣に組み込またため、秀吉に強い不満を抱くようになったそうです。
その後、主家・結城氏の跡継に徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀康が結城氏の跡継ぎとして入嗣すると、不満が募った重経は結城氏に従う嫡男・三経を追放し、佐竹義重の四男・宣家を養子として迎え多賀谷氏の家督を譲りました。
文禄元年(1592年)文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮派兵)には病気を理由に参陣しなかったため秀吉の怒りを買い、所領の一部を没収されてしまいた。
1600年(慶長5年)9月、関ヶ原の戦いでは、東軍総大将・徳川家康の再三の出陣要請にも応じる事はなく、西軍に通じて上杉景勝に与し、会津征伐に向かう家康の小山本陣へ夜襲をかけようとした事が露見したため翌年2月に改易処分となりました。
家督を譲った宣家は実家の佐竹氏に戻ると岩城氏を相続して出羽国亀田藩主となり、重経の家臣も重経を見限って宣家の家臣となったため、重経は親族を頼りながら各地を流浪した末、元和4年(1618年)11月9日に病没しました。
伊奈氏屋敷跡(埼玉県伊奈町 2012.07.09旦那撮影)
天正18年(1590年)徳川家康の関東入封後、武蔵国足立郡小室及び鴻巣に1万石を与えられ関東代官頭として家康の関東支配に貢献した伊奈忠次により築かれました。
2代忠政の嫡子・忠勝が早世したため、忠政の弟である忠治が寛永6年(1629年)に関東郡代の名跡を継承し武蔵国赤山に屋敷を移すと、当地の屋敷は廃されました。
伊奈忠次
天文19年(1550年)三河国幡豆郡小島城主・伊奈忠家の嫡男として生まれました。
永禄6年(1563年)父・忠家が三河一向一揆に加わり松平家康(徳川家康)の下を出奔しましたが、天正3年(1575年)長篠の戦いに陣借りをして参陣し戦功を立て、父とともに徳川家に帰参を果たすと、家康嫡男・信康の家臣となりました。
天正7年(1579年)9月15日、信康が家康の命令で切腹させられると再び出奔し、和泉国・堺に居住しました。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれ、堺を遊覧中だった信長の同盟者・徳川家康にも明智軍の追手が迫る中、堺で隠棲していた忠次は、家康を三河岡崎城に脱出させる伊賀越えに協力して脱出を成功させると徳川家への帰参が許され、伊奈氏旧領の小島を与えられました。
忠次は三遠奉行の一人だった代官・小栗吉忠の同心として活躍し、吉忠の跡を任され代官衆筆頭となり、豊臣秀吉の小田原征伐や文禄・慶長の役で兵糧の輸送や街路整備などを一手に担って代官としての地位を盤石にしました。
徳川家康の関東入封後は、武蔵国足立郡小室・鴻巣に1万石を与えられ、関東代官頭に任命されました。
忠次は関東各地で検地、新田開発、河川改修、知行割、寺社政策などを行い、江戸幕府の財政基盤の確立に貢献し、江戸でも治水を行い運河を整備して諸国からの水運を容易にすると、領民の暮らしを豊かにするために農民には炭焼き、養蚕、製塩などを奨励、桑、麻、楮などの栽培方法を広めて江戸繁栄の礎を築きました。
ちなみに、埼玉県伊奈町は忠次、茨城県つくばみらい市伊奈地区は次男・忠治が町名の由来となっていて、親子二代で後世に名を残すほど、江戸幕府での伊奈氏の業績は多大なものだったという事ですね。
「境内社の八幡神社と東照宮」
東蕗田天満社には大日神社や三峯神社など多くの境内社が鎮座しています。
たびたびマスコミにも取り上げられる和歌の見開き御朱印が有名な東蕗田天満社はデザインも可愛いものが多く、どれを拝受しようか本当に悩みます(;・∀・)
迷っていた管理人に宮司さんのおススメで七夕限定の見開き御朱印を直書きで拝受しました。
初穂料も直書きで800円と非常にリーズナブル(言葉悪くてスイマセン)です。
直書きで頂いた七夕限定見開き御朱印。
紫を基調とした可愛いデザインの御朱印に大満足です。