【真田山長谷寺】真田一族の最初の菩提寺|真田三代が眠る「長谷寺」の御朱印
真田山長谷寺(しんでんさん ちょうこくじ)で書置きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「真田山種月院長谷寺」
所在地:長野県上田市真田町長4646
駐車場:あり(無料)
アクセス:上信越道「上田菅平IC」から国道144号経由で約15分、JR上田駅から上田バス(真田経由菅平高原行き)で「真田」バス停下車徒歩約15分
戦国ファンなら一度は訪れたい聖地、長野県上田市にある「真田山 長谷寺」をご紹介します。
上田といえば「上田城」が有名ですが、真田一族の本当のルーツに触れるなら、ここ長谷寺は絶対に外せません。

「六地蔵」
駐車場から墓地の脇の坂道を登っていくと、両脇に3体ずつお地蔵様が並んでいました。
■長谷寺の歴史
長谷寺は天文16年(1547年)信濃小県郡真田郷を領した真田幸隆が居城・松尾城内(真田氏本城)にあった種月庵跡地に禅僧・伝為晃運を招き創建しました。
慶長5年(1600年)徳川秀忠と真田昌幸が争った第二次上田合戦の際に、徳川勢に放火され焼失してしまいました。
その後、長谷寺は再建され、上田藩主となっていた幸隆の孫にあたる信之(昌幸の嫡子)により幸隆夫妻と昌幸の菩提所として保護されていました。
元和8年(1622年)幕府の命令によって真田氏は松代へ転封となったため、長谷寺の6世住職も松代に移り住み、松代で真田山長國寺を開山しました。
長谷寺は明治23年(1890年)に火災によって焼失しましたが、昭和53年(1978年)に本堂などが再建されています。

階段を登って境内に入ると左側に鐘楼が建っていて、お参りする時に鐘をつく事が出来ます。
■真田幸隆
永正10年(1513年)
信濃・小県の名族、滋野一族に一人の男が生まれた。
のちに「攻め弾正」と称される智将――真田幸隆である。
しかし、その出自は今なお謎に包まれている。
海野棟綱の子とも、あるいは真田頼昌の子とも伝わるが、確かな記録は残されていない。
後世、「真田幸隆」の名で広く知られる彼の本名は「幸綱」
だが、その名以上に、この男の生き様こそが歴史に刻まれることとなる。
天文10年(1541年)5月
海野平の戦い――
滋野一族は武田・村上連合軍の前に敗れ去り、没落する。
一族は関東管領・上杉憲政を頼り、上野へと落ち延びた。
すべてを失った幸隆は、長源寺に身を寄せる。
だが、この流転の中で一人の僧と出会う。
後に長谷寺の開山となる禅僧・伝為晃運。
この出会いが、のちの真田家の精神的支柱を生むことになる。
天文16年(1547年)。
幸隆は、甲斐の若き虎――武田晴信(のちの信玄)に仕えた。
そして、失った故地・真田郷を取り戻す。
帰還を果たした幸隆は、松尾城に伝為晃運を招き、真田一族の祈りの場として長谷寺を創建した。
それは、再興への第一歩であった。
だが、戦場は容赦しない。
天文17年(1548年)、上田原の戦い。
幸隆は武田家重臣・板垣信方の旗下として参陣する。
しかし、村上義清に隙を突かれた信方は討死。
武田軍は屈辱的敗北を喫した。
この敗戦は、幸隆の胸に深く刻まれることとなる。
そして天文20年(1551年)
運命を変える一戦が訪れる。
武田晴信は、難攻不落と謳われた砥石城の攻略を幸隆に命じた。
正面から攻めれば必ず敗れる――
誰もがそう考えたその城を、幸隆は「戦わずして」落とす。
5月26日。
わずか一日での陥落。
それは力ではなく、“策”による勝利だった。
記録(高白斎記)には「乗取」と記されるこの戦い。
内応、調略、裏切り――
さらには弟・矢沢頼綱をも巻き込んだ一大策略であった可能性すらある。
敵将すら城内で討たせ、血を流さず城を奪う。
これぞ、真田幸隆の真骨頂であった。
この功績により、幸隆は旧領すべてを回復。
さらに砥石城代に任じられ、武田家中でも異例の出世を遂げる。
知略に優れるのみならず、自ら槍を取り戦場を駆ける武勇をも兼ね備えた武将。
人は彼をこう呼んだ。
――「攻め弾正」。
国人領主でありながら、譜代重臣に並ぶ地位。
それは、実力で掴み取った栄光であった。
永禄2年(1559年)
主君・晴信が出家し、「信玄」となる。
それに倣い、幸隆もまた髪を下ろし、
「一徳斎幸隆」と号した。
この時より、「幸隆」の名が後世に伝わることとなる。
永禄4年(1561年)
川中島、第四次決戦。
幸隆は嫡男・信綱とともに別動隊を率い、妻女山への夜襲という危険な任を担った。
武田軍の命運を賭けた作戦の中核――
そこに、この男の信頼の深さが表れている。
その後も上野攻略において躍動する。
岩櫃城、嵩山城、白井城――
次々と敵城を攻略し、ついには要衝・箕輪城代を任されるまでに至る。
もはや一国人の域を超えた存在であった。
だが、時はすべての武将に平等に訪れる。
永禄10年(1567年)
幸隆は病を理由に家督を嫡男・信綱へ譲り、戦場を去った。
そして天正2年(1574年)5月19日。
砥石城にて、その生涯に幕を下ろす。
すべてを失った敗者から、知略で国を取り戻した復活の将へ。
真田幸隆――
その生き様は、後の真田一族の礎となり、やがて「日本一の兵」へと繋がっていくのである。

ちょうどお昼時にお伺いしてしまいましたが、本堂を入ったところにお賽銭箱と書置きの御朱印が置いてありました。
本堂の裏手には真田幸隆夫妻、真田昌幸公の墓所もあります。
上田城から車で15分ほど。
真田一族の情熱と歴史を肌で感じに、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
2022.06.09参拝

「真田山種月院長谷寺」
所在地:長野県上田市真田町長4646
駐車場:あり(無料)
アクセス:上信越道「上田菅平IC」から国道144号経由で約15分、JR上田駅から上田バス(真田経由菅平高原行き)で「真田」バス停下車徒歩約15分
戦国ファンなら一度は訪れたい聖地、長野県上田市にある「真田山 長谷寺」をご紹介します。
上田といえば「上田城」が有名ですが、真田一族の本当のルーツに触れるなら、ここ長谷寺は絶対に外せません。

「六地蔵」
駐車場から墓地の脇の坂道を登っていくと、両脇に3体ずつお地蔵様が並んでいました。
■長谷寺の歴史
長谷寺は天文16年(1547年)信濃小県郡真田郷を領した真田幸隆が居城・松尾城内(真田氏本城)にあった種月庵跡地に禅僧・伝為晃運を招き創建しました。
慶長5年(1600年)徳川秀忠と真田昌幸が争った第二次上田合戦の際に、徳川勢に放火され焼失してしまいました。
その後、長谷寺は再建され、上田藩主となっていた幸隆の孫にあたる信之(昌幸の嫡子)により幸隆夫妻と昌幸の菩提所として保護されていました。
元和8年(1622年)幕府の命令によって真田氏は松代へ転封となったため、長谷寺の6世住職も松代に移り住み、松代で真田山長國寺を開山しました。
長谷寺は明治23年(1890年)に火災によって焼失しましたが、昭和53年(1978年)に本堂などが再建されています。

階段を登って境内に入ると左側に鐘楼が建っていて、お参りする時に鐘をつく事が出来ます。
■真田幸隆
永正10年(1513年)
信濃・小県の名族、滋野一族に一人の男が生まれた。
のちに「攻め弾正」と称される智将――真田幸隆である。
しかし、その出自は今なお謎に包まれている。
海野棟綱の子とも、あるいは真田頼昌の子とも伝わるが、確かな記録は残されていない。
後世、「真田幸隆」の名で広く知られる彼の本名は「幸綱」
だが、その名以上に、この男の生き様こそが歴史に刻まれることとなる。
天文10年(1541年)5月
海野平の戦い――
滋野一族は武田・村上連合軍の前に敗れ去り、没落する。
一族は関東管領・上杉憲政を頼り、上野へと落ち延びた。
すべてを失った幸隆は、長源寺に身を寄せる。
だが、この流転の中で一人の僧と出会う。
後に長谷寺の開山となる禅僧・伝為晃運。
この出会いが、のちの真田家の精神的支柱を生むことになる。
天文16年(1547年)。
幸隆は、甲斐の若き虎――武田晴信(のちの信玄)に仕えた。
そして、失った故地・真田郷を取り戻す。
帰還を果たした幸隆は、松尾城に伝為晃運を招き、真田一族の祈りの場として長谷寺を創建した。
それは、再興への第一歩であった。
だが、戦場は容赦しない。
天文17年(1548年)、上田原の戦い。
幸隆は武田家重臣・板垣信方の旗下として参陣する。
しかし、村上義清に隙を突かれた信方は討死。
武田軍は屈辱的敗北を喫した。
この敗戦は、幸隆の胸に深く刻まれることとなる。
そして天文20年(1551年)
運命を変える一戦が訪れる。
武田晴信は、難攻不落と謳われた砥石城の攻略を幸隆に命じた。
正面から攻めれば必ず敗れる――
誰もがそう考えたその城を、幸隆は「戦わずして」落とす。
5月26日。
わずか一日での陥落。
それは力ではなく、“策”による勝利だった。
記録(高白斎記)には「乗取」と記されるこの戦い。
内応、調略、裏切り――
さらには弟・矢沢頼綱をも巻き込んだ一大策略であった可能性すらある。
敵将すら城内で討たせ、血を流さず城を奪う。
これぞ、真田幸隆の真骨頂であった。
この功績により、幸隆は旧領すべてを回復。
さらに砥石城代に任じられ、武田家中でも異例の出世を遂げる。
知略に優れるのみならず、自ら槍を取り戦場を駆ける武勇をも兼ね備えた武将。
人は彼をこう呼んだ。
――「攻め弾正」。
国人領主でありながら、譜代重臣に並ぶ地位。
それは、実力で掴み取った栄光であった。
永禄2年(1559年)
主君・晴信が出家し、「信玄」となる。
それに倣い、幸隆もまた髪を下ろし、
「一徳斎幸隆」と号した。
この時より、「幸隆」の名が後世に伝わることとなる。
永禄4年(1561年)
川中島、第四次決戦。
幸隆は嫡男・信綱とともに別動隊を率い、妻女山への夜襲という危険な任を担った。
武田軍の命運を賭けた作戦の中核――
そこに、この男の信頼の深さが表れている。
その後も上野攻略において躍動する。
岩櫃城、嵩山城、白井城――
次々と敵城を攻略し、ついには要衝・箕輪城代を任されるまでに至る。
もはや一国人の域を超えた存在であった。
だが、時はすべての武将に平等に訪れる。
永禄10年(1567年)
幸隆は病を理由に家督を嫡男・信綱へ譲り、戦場を去った。
そして天正2年(1574年)5月19日。
砥石城にて、その生涯に幕を下ろす。
すべてを失った敗者から、知略で国を取り戻した復活の将へ。
真田幸隆――
その生き様は、後の真田一族の礎となり、やがて「日本一の兵」へと繋がっていくのである。

ちょうどお昼時にお伺いしてしまいましたが、本堂を入ったところにお賽銭箱と書置きの御朱印が置いてありました。
本堂の裏手には真田幸隆夫妻、真田昌幸公の墓所もあります。
上田城から車で15分ほど。
真田一族の情熱と歴史を肌で感じに、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
2022.08.08 22:52 | comment(0)
【皆神神社】長野の超絶パワースポット|ピラミッドにUFO伝説!?謎すぎる皆神神社に潜入してみた
皆神神社で書置きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「皆神神社」
所在地:長野県長野市松代町豊栄 5464-2
駐車場:あり(無料)
アクセス:上信越道長野ICから約2.5km、JR長野駅からバスで「松代高校」下車、そこから徒歩約20分で登山道入口に到着(山頂まで約1時間)
「普通の神社巡りには飽きた…」
というあなた、長野県松代町にある皆神(みなかみ)神社を知っていますか?
ここ、ただの神社じゃありません。
一歩足を踏み入れると、常識がひっくり返るような「不思議」のオンパレードなんです!
皆神神社は
「世界最大最古のピラミッド」
ともいわれる標高659mの皆神山の山頂に鎮座しています。
信州のパワースポットとしても有名で多くの方が参拝に訪れています。
山頂に参拝者用の駐車場がありますが、登山道は狭く急勾配なので駐車場までの道が怖かったです。
50ccバイクで参拝に来てる方は、バイクを麓に停めて歩いて登っていました。

「皆神神社 隋神門」
歴史を感じさせてくれる木造の隋神門。
門をくぐり境内に入ると、右側に弁天社を囲む池があります。
池の傍の石に管理人のキライな大きいカエルちゃんが・・・
怖くなってしまって境内はあまり散策できませんでした( ;∀;)
■山そのものが「世界最古のピラミッド」!?
まず驚くのが、この神社が鎮座する「皆神山」。
実はここ、古文書や研究家たちの間で「世界最古のピラミッド」だと言われているんです。
確かに、遠くから見るとあまりに綺麗な三角形。
人工的に土を盛って作られたという説もあり、ロマンが止まりません。
■ UFOの秘密基地という噂も…
地元では有名な話ですが、皆神山は「UFOの目撃例」が異常に多い場所。
かつてこの地で起きた「松代群発地震」の際、山が光り輝いたという目撃証言が相次ぎました。
神社の境内には「宇宙の神々」を連想させるような独特の空気感が漂っています。
■クロサンショウウオが守る「底なし沼」
拝殿の横にある「カエルの池」は、県の天然記念物クロサンショウウオの産卵地。
一見静かな池ですが、実は底がどこまで続いているかわからないという伝説も。
神秘的な生き物たちが集まるこの場所は、まさに生命のエネルギーに満ちたパワースポットです。

「社殿」
皆神神社は、皆神山の山頂に鎮座する神社群の総称で、
「熊野出速雄神社」
「侍従神社」
「富士浅間神社」
などから成り立っています。
その起源は奈良時代・養老2年(718年)。
出速雄神社が奉祀されたことに始まるとされ、1300年以上の歴史を誇る、信州屈指の古社です。
境内には、天満宮や弁天社といった摂社・末社も鎮座しており、信仰の厚さを今に伝えています。
なかでも境内社のひとつである侍従神社には、佐久・内山城主の一族である内山満顕が、「侍従大神」として祀られています。
満顕は、内山美濃守満久の三男として生まれた人物です。
幼くして13歳で鞍馬山に入り、密教の修行に身を投じた満顕。
やがて内山氏が滅亡すると、皆神山へと入り、大日寺和合院宥賢と名乗って修行を続けました。
その後、「侍従天狗坊」と称されるようになり、皆神山における修験道を大成。
この地はやがて、南信濃における修験道の一大聖地として大いに栄えることとなります。
神々の鎮まる山であり、修験者たちの聖地でもあった皆神山――
その頂に鎮座する皆神神社は、神話と修験の歴史が交差する特別な場所なのです。

内山城本丸跡(2009.06.13旦那撮影)
内山城は、永正年間(1504~1521年)に大井美作入道玄岑によって築かれたと伝えられています。
その後の城主は、大井氏や小山田氏とされており、史料上には「内山氏」の名は確認されていません。
しかし、皆神神社の御由緒によると、侍従大神として祀られている下野守三郎満顕の父・内山美濃守満久が、この地の城主であったと伝えられています。
このことから考えると、玄岑による築城以前にも、内山城の前身となるような城が存在していた可能性もありそうです。
もっとも、内山満久がどの時代の人物なのかははっきりしておらず、ここから先はあくまで想像の域を出ません。
また、内山氏がどのようにして滅亡したのかも気になるところです。
信濃の内山氏は、清和源氏の流れをくむ大井氏の一族とされているため、もし内山氏滅亡の直後に同族の大井氏がこの地を支配したのであれば、同族間の争いによって滅ぼされた可能性も考えられます。
とはいえ、確かな史料があるわけではなく、あくまで一つの推測に過ぎません。
歴史の空白に思いを巡らせるのも、城跡巡りの醍醐味――
そんな想像も楽しみつつ、内山城の歴史に触れてみるのも面白いかもしれませんね。

書置きで頂いた御朱印。
御朱印はお賽銭箱の後ろにあります。
日付は自分で書入れるようになっています。

皆神山からの眺望、ほんとに素晴らしかったです。
皆神山は世界最大最古のピラミッドともいわれていますが、30~35万年前くらいに活動した安山岩の溶岩ドームらしいです。
■皆神山のピラミッドにはUFOが!?
昭和40年(1965年)から昭和46年(1971年)にかけて、皆神山の直下を震源とする松代群発地震が起りました。
5年半という長期間にわたって続いた群発地震は世界的にも稀な事なんだそうです。
昭和42年(1967年)に行われた皆神山付近の重力分布調査で、皆神山付近には低重力域がある事が確認され、地下には短径800m・長径1500m、深度200から400mのあたりに楕円形陥没構造の存在が推定さています。
もしかしたら・・・UFOが埋まってるのかもしれません☆彡・・・( ´∀` )。。★。
歴史好き、オカルト好き、そしてエネルギーをチャージしたい人。
どんな人が行っても「何か」を感じてしまうのが皆神神社のすごいところ。
「信じるか信じないかは、あなた次第」
次の週末は、長野のピラミッドへ「宇宙のパワー」を浴びに行きませんか?
2022.06.09参拝

「皆神神社」
所在地:長野県長野市松代町豊栄 5464-2
駐車場:あり(無料)
アクセス:上信越道長野ICから約2.5km、JR長野駅からバスで「松代高校」下車、そこから徒歩約20分で登山道入口に到着(山頂まで約1時間)
「普通の神社巡りには飽きた…」
というあなた、長野県松代町にある皆神(みなかみ)神社を知っていますか?
ここ、ただの神社じゃありません。
一歩足を踏み入れると、常識がひっくり返るような「不思議」のオンパレードなんです!
皆神神社は
「世界最大最古のピラミッド」
ともいわれる標高659mの皆神山の山頂に鎮座しています。
信州のパワースポットとしても有名で多くの方が参拝に訪れています。
山頂に参拝者用の駐車場がありますが、登山道は狭く急勾配なので駐車場までの道が怖かったです。
50ccバイクで参拝に来てる方は、バイクを麓に停めて歩いて登っていました。

「皆神神社 隋神門」
歴史を感じさせてくれる木造の隋神門。
門をくぐり境内に入ると、右側に弁天社を囲む池があります。
池の傍の石に管理人のキライな大きいカエルちゃんが・・・
怖くなってしまって境内はあまり散策できませんでした( ;∀;)
■山そのものが「世界最古のピラミッド」!?
まず驚くのが、この神社が鎮座する「皆神山」。
実はここ、古文書や研究家たちの間で「世界最古のピラミッド」だと言われているんです。
確かに、遠くから見るとあまりに綺麗な三角形。
人工的に土を盛って作られたという説もあり、ロマンが止まりません。
■ UFOの秘密基地という噂も…
地元では有名な話ですが、皆神山は「UFOの目撃例」が異常に多い場所。
かつてこの地で起きた「松代群発地震」の際、山が光り輝いたという目撃証言が相次ぎました。
神社の境内には「宇宙の神々」を連想させるような独特の空気感が漂っています。
■クロサンショウウオが守る「底なし沼」
拝殿の横にある「カエルの池」は、県の天然記念物クロサンショウウオの産卵地。
一見静かな池ですが、実は底がどこまで続いているかわからないという伝説も。
神秘的な生き物たちが集まるこの場所は、まさに生命のエネルギーに満ちたパワースポットです。

「社殿」
皆神神社は、皆神山の山頂に鎮座する神社群の総称で、
「熊野出速雄神社」
「侍従神社」
「富士浅間神社」
などから成り立っています。
その起源は奈良時代・養老2年(718年)。
出速雄神社が奉祀されたことに始まるとされ、1300年以上の歴史を誇る、信州屈指の古社です。
境内には、天満宮や弁天社といった摂社・末社も鎮座しており、信仰の厚さを今に伝えています。
なかでも境内社のひとつである侍従神社には、佐久・内山城主の一族である内山満顕が、「侍従大神」として祀られています。
満顕は、内山美濃守満久の三男として生まれた人物です。
幼くして13歳で鞍馬山に入り、密教の修行に身を投じた満顕。
やがて内山氏が滅亡すると、皆神山へと入り、大日寺和合院宥賢と名乗って修行を続けました。
その後、「侍従天狗坊」と称されるようになり、皆神山における修験道を大成。
この地はやがて、南信濃における修験道の一大聖地として大いに栄えることとなります。
神々の鎮まる山であり、修験者たちの聖地でもあった皆神山――
その頂に鎮座する皆神神社は、神話と修験の歴史が交差する特別な場所なのです。

内山城本丸跡(2009.06.13旦那撮影)
内山城は、永正年間(1504~1521年)に大井美作入道玄岑によって築かれたと伝えられています。
その後の城主は、大井氏や小山田氏とされており、史料上には「内山氏」の名は確認されていません。
しかし、皆神神社の御由緒によると、侍従大神として祀られている下野守三郎満顕の父・内山美濃守満久が、この地の城主であったと伝えられています。
このことから考えると、玄岑による築城以前にも、内山城の前身となるような城が存在していた可能性もありそうです。
もっとも、内山満久がどの時代の人物なのかははっきりしておらず、ここから先はあくまで想像の域を出ません。
また、内山氏がどのようにして滅亡したのかも気になるところです。
信濃の内山氏は、清和源氏の流れをくむ大井氏の一族とされているため、もし内山氏滅亡の直後に同族の大井氏がこの地を支配したのであれば、同族間の争いによって滅ぼされた可能性も考えられます。
とはいえ、確かな史料があるわけではなく、あくまで一つの推測に過ぎません。
歴史の空白に思いを巡らせるのも、城跡巡りの醍醐味――
そんな想像も楽しみつつ、内山城の歴史に触れてみるのも面白いかもしれませんね。

書置きで頂いた御朱印。
御朱印はお賽銭箱の後ろにあります。
日付は自分で書入れるようになっています。

皆神山からの眺望、ほんとに素晴らしかったです。
皆神山は世界最大最古のピラミッドともいわれていますが、30~35万年前くらいに活動した安山岩の溶岩ドームらしいです。
■皆神山のピラミッドにはUFOが!?
昭和40年(1965年)から昭和46年(1971年)にかけて、皆神山の直下を震源とする松代群発地震が起りました。
5年半という長期間にわたって続いた群発地震は世界的にも稀な事なんだそうです。
昭和42年(1967年)に行われた皆神山付近の重力分布調査で、皆神山付近には低重力域がある事が確認され、地下には短径800m・長径1500m、深度200から400mのあたりに楕円形陥没構造の存在が推定さています。
もしかしたら・・・UFOが埋まってるのかもしれません☆彡・・・( ´∀` )。。★。
歴史好き、オカルト好き、そしてエネルギーをチャージしたい人。
どんな人が行っても「何か」を感じてしまうのが皆神神社のすごいところ。
「信じるか信じないかは、あなた次第」
次の週末は、長野のピラミッドへ「宇宙のパワー」を浴びに行きませんか?
2022.07.27 22:16 | comment(0)
【眞田神社】真田昌幸の知略が光る上田城跡と、季節限定御朱印を巡る旅
家康が恐れた武将「表裏比興の者・真田昌幸」が築いた上田城址に鎮座する「眞田神社」で、直書きの季節限定見開き「夏越祓御朱印」「月替わり御朱印」と、書置きの枚数限定「疫病終息祈願御朱印」を頂きました。
2022.06.09参拝


「眞田神社」
所在地:長野県上田市二の丸1-12
駐車場:あり(無料)※一部有料化の動きあり
アクセス:上田駅から徒歩約15分
戦国時代、徳川家康を二度も退けた名城として知られる上田城。
その築城主・真田昌幸は、豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評されたほどの智将でした。
そんな歴史の舞台となった上田城跡を訪れ、今回は眞田神社の御朱印を目的にゆっくりと巡ってきました。
これまで城跡の見学が中心だった訪問とは違い、境内の空気や歴史の重なりを感じながらの参拝は、またひと味違う魅力があります。
季節限定の御朱印や月替わりの御朱印、さらには枚数限定の特別な御朱印まで拝受することができ、歴史好き・御朱印好きの私には、たまらないひとときとなりました。
戦国の知略が息づく地でいただく御朱印には、どこか特別な重みが感じられます。
ご利益: 「落ちない・負けない」ことから、受験生や試合前の参拝者が多く訪れます。
勝負運、知恵の神様、開運、学業成就などのご利益があるとされています。

眞田神社には3度目となる訪問です。
1,2回目は旦那の上田城の見学が目的でしたが、今回初めて眞田神社の参詣と御朱印拝受を目的として伺いました。

■眞田神社の歴史
眞田神社は明治12年(1879年)旧上田藩士や旧領内有志によって藤井松平氏初代の忠山公、二代・忠昭公、そして藤井松平氏の初代上田藩主・三代・忠周公のご霊璽をお祀りする神社として創建されました。
創建当初は「松平神社」と称していましたが、、昭和28年(1953年)に上田城の築城者である真田氏と、真田氏のあとに上田藩主となった仙谷氏、そしてそののち幕末まで藩主を務めた藤井松平氏の歴代城主が合祀され「上田神社」と改称しました。
しかし、市内には同名他社が存在し紛らわしいとの事から、昭和38年(1963年)に上田城初代城主で築城者でもある真田昌幸公の名を冠して「眞田神社」と改称し現在に至ります。

眞田神社拝殿
拝殿前には六文銭がデザインされた写真撮影用のパネルが設置されていました。
お賽銭箱の上の赤い六文銭に手をかざすと、鈴の音が聞こえてきます。

境内には「青年 真田幸村公の像」が建てられていました。
実は、真田幸村は上田城で過ごした期間はとっても短かったんです。
第一次上田合戦の際には、越後・上杉景勝の元へ人質として赴ていて参陣していませんでしたし、その後、豊臣家臣となった真田昌幸は、幸村を人質として大阪へ送っていたので、幸村の上田入城は慶長5年(1600年)、徳川家康の会津・上杉氏討伐の時、徳川方から離反して上田城に入ったのが初めてだったとも考えられます。
更に、歴史好きの方には周知の事実ですが、真田幸村が生前、幸村と名乗った事はなく、江戸時代に書かれた軍記物に初めて幸村と表記され、幸の字が真田氏のルーツであった海野氏の通字だった事と、村の字が、なにかと因縁のあった徳川家に伝わる妖刀伝説の「村正」を連想させ、庶民の間で広く定着していったそうです。
幸村という名前が幅広く定着してしまったため、真田氏の正式な記録にまで幸村が使われるようになったんだそうですよ。
幸村の本名は真田信繁で、昌幸は、仕えていた武田信玄の実弟・信繁のように、兄・信幸を裏切る事なく支えるよう願って付けた名前なのかも知れませんね。

季節限定見開き「夏越祓御朱印」
直書きで初穂料は500円と、とっても良心的です。
月替わりの御朱印も直書きで初穂料300円なのに、めちゃめちゃクオリティーが高くて、遠方の方は郵送で拝受されても絶対に満足できると思います。

二ノ丸跡の上田城跡公園にあった真田幸村公の山車、お祭りで曳かれるものなのでしょうか?

「上田城 南櫓と東虎口櫓門」
二度も徳川の大軍を退けた上田城、築城者の真田昌幸は豊臣秀吉から
「表裏比興の者」
と評されるほどの智将だったそうです。
昌幸のお父さんの幸隆も知略に優れた武将で、武田信玄が大敗した砥石城を、調略によってわずか1日で攻略した凄い武将だったそうです。
💡「表裏比興の者」とは?
「老獪な策略家」「食わせ者」という意味の言葉で、小大名ながら周囲の大国を翻弄して生き抜いた、狡猾さと才覚を称えた言葉です。
+---徹底解説、上田合戦---+
徳川の大軍を2度も退けた真田昌幸、上田城を舞台に繰り広げられた上田合戦を小説仕立てで紹介します。
---第一次上田合戦---
天正10年(1582年)6月――
本能寺の変。
織田信長、横死。
天下の均衡は、一夜にして崩れ去った。
同年2月、信長によって滅ぼされた武田家。
その旧領――甲斐・信濃・上野は、統治者を失い“空白地帯”となる。
織田の支配は崩壊し、家臣たちは次々と撤退。
その隙を狙い、三人の大名が動き出す。
越後の上杉景勝。
相模の北条氏直。
そして三河の徳川家康。
武田の遺領を巡る争奪戦――
「天正壬午の乱」が幕を開けた。
その渦中にいたのが、真田昌幸である。
当初、昌幸は北条方に属していた。
だが、情勢を見極めると――
「勝つ側につく」
迷いなく、徳川家康へと寝返る。
そして、西上野を巡り、かつての主・北条と刃を交えた。
しかし、戦国は理では動かない。
天正10年(1582年)10月。
北条と徳川が突如、和議を結ぶ。
その条件は――
上野沼田は北条領。
信濃佐久は徳川領。
すなわち、真田の領地は「勝手に」切り分けられたのだった。
「ふざけるな……」
昌幸は、静かに牙を剥く。
天正11年(1583年)。
昌幸は、新たな拠点の構築に着手する。
信濃・上田。
ここに築かれるのが、後に名城と謳われる――上田城である。
そして天正13年(1585年)。
ついに決断の時が来る。
徳川家康からの命令――
「沼田を明け渡せ」
これを、昌幸は拒否した。
さらに一手。
次男・信繁(後の幸村)を人質として上杉景勝へ差し出し、
上杉に臣従。
徳川からの離反を、明確に示した。
その瞬間――
真田は、すべてを敵に回した。
築城中の上田城にも、変化が現れる。
当初、北の上杉に備えて設けられるはずだった大手門。
それは東へと変更される。
敵は――徳川。
そう、定まったのだ。
同年7月。
遠江・浜松。
家康のもとに報せが届く。
「真田昌幸、謀反」
――激怒。
ただちに討伐命令が下された。
8月。
鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らが率いる、七千の大軍。
上田盆地へ侵攻。
対する真田軍――わずか一千二百。
圧倒的兵力差。
だが、昌幸は動じない。
本城・上田城に籠る昌幸。
砥石城には嫡男・信幸。
矢沢城には一族・矢沢頼康。
さらに上杉の援軍。
三点を結ぶ、防衛線が完成する。
すべては――計算の内。
戦いは始まった。
徳川軍は猛攻を仕掛け、ついに二ノ丸へ侵入。
だが、それすら昌幸の“策”だった。
地形を知り尽くした防衛。
誘い込み、崩す。
徳川軍は、徐々に追い詰められていく。
やがて、退却。
だが――逃がさない。
昌幸、追撃開始。
さらに、砥石城より信幸隊が出撃。
側面から襲いかかる。
そして矢沢頼康も参戦。
三方からの挟撃。
徳川軍は崩壊した。
逃げる先は、神川。
だがそれは――死地。
押し込まれた兵は次々と川へ落ち、
溺死。
戦場は、一方的な殲滅戦へと変わった。
真田軍の損害――わずか40。
対して徳川軍は1300の兵を失う大敗。
これが――
第一次上田合戦。
家康は知る。
この男の危険さを。
知略、胆力、そして裏切りすら武器にする男――真田昌幸。
後年。
家康は一つの策を講じる。
重臣・本多忠勝の娘、小松姫を
昌幸の嫡男・信幸に嫁がせる。
敵ではなく――取り込むために。
それほどまでに、
真田昌幸という存在は、
“無視できぬ男”だったのである。
---第二次上田合戦---
慶長5年(1600年)6月――
天下は再び、乱れる。
豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は、
会津の上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、討伐を決断した。
「謀反の兆しあり」
その一言で、大軍が東へと動き出す。
この時、真田昌幸もまた、家康の陣にあった。
嫡男・信幸は、本多忠勝の娘婿。
次男・信繁もまた、父とともに従軍していた。
真田は、徳川の一員――
誰もがそう思っていた。
だが、その背後で動く影があった。
石田三成。
家康不在の隙を突き、挙兵。
毛利輝元を総大将に据え、
「徳川家康弾劾状」を諸大名へ送りつける。
天下を二分する戦い――
関ヶ原の火種が、ここに灯った。
下野・犬伏。
ここで、運命が分かれる。
三成の書状を受け取った昌幸は、決断する。
嫡男・信幸を東軍に残し――
次男・信繁とともに、西軍へ。
父と弟は西へ。
兄は東へ。
真田一族、分裂。
それは、生き残るための策だった。
昌幸は、ただちに上田へ引き返す。
再び、あの城が舞台となる。
家康は動く。
息子・徳川秀忠に、3万8千の大軍を与えた。
本多正信、榊原康政、大久保忠隣――
歴戦の猛将を従え、中山道制圧を命じる。
目的はただ一つ。
――西軍との決戦へ、間に合うこと。
9月2日。
秀忠軍、信濃・小諸城へ入る。
対する昌幸――兵わずか2千。
圧倒的戦力差。
だが、昌幸は動じない。
翌3日。
昌幸は、意外な手を打つ。
「城を明け渡そう」
信幸を通じ、降伏と助命を申し入れた。
初陣の秀忠は、これを受け入れる。
「恐れたか」
そう、侮った。
だが――
翌日。
昌幸の態度は、一変する。
挑発。
あからさまな裏切り。
「なめるな……!」
秀忠、激怒。
上田城攻略を決断する。
9月5日。
秀忠は、砥石城攻めを命じる。
守るは、信繁。
だが――
信繁は戦わずして撤退。
上田城へ。
すべては、誘い。
6日。
上田城、完全包囲。
秀忠は、兵糧を断つべく稲の刈り取りを命じる。
これに対し、真田勢が迎撃。
小競り合いが続く。
時間だけが、過ぎていく。
その時。
軍監・榊原康政が進言する。
「上田城は捨てよ。
関ヶ原へ急ぐべし」
正論だった。
だが――
秀忠は、耳を貸さない。
昌幸への怒りが、判断を狂わせていた。
そして9月8日。
家康からの書状が届く。
「9日までに美濃赤坂へ着陣せよ」
その瞬間、秀忠は悟る。
――はめられた。
昌幸の狙いは、最初からこれだった。
足止め。
ただ、それだけのために。
上田城攻略、断念。
全軍、撤退。
関ヶ原へ、急行。
だが、間に合わない。
中山道は狭く大軍の移動は困難、
さらに大雨で川は氾濫。
進めど進めど、進めない。
そして――
9月15日。
関ヶ原、開戦。
だがそこに、秀忠軍の姿はなかった。
家康、激怒。
徳川家の嫡男は、天下分け目の決戦に間に合わなかった。
すべては――
真田昌幸、ただ一人に翻弄された結果だった。
戦後。
東軍の勝利。
秀忠を苦しめた昌幸と信繁は敗者となる。
紀伊・九度山へ配流。
天下に名を轟かせた策士は、表舞台から姿を消した。
一方、東軍に残った信幸は生き残る。
名を信之と改め、上田の地を与えられる。
真田は、途絶えなかった。
だが――
家康は忘れない。
二度にわたり、煮え湯を飲まされた城。
上田城。
それは、徹底的に破壊された。
もはや城ではない。
“消された”のだ。
その後、時代は移る。
真田は松代へ。
上田には仙石、そして松平。
城は再建されるも、かつての姿には戻らない。
だが、記憶は残る。
わずか二千で三万八千を翻弄した男。
天下を遅らせた城。
上田。
それは――
真田昌幸という「異才」が刻んだ、戦国最後の罠であった。

眞田神社の境内に残る「真田井戸」
この井戸、実は抜け穴となっていて、城北にある砦につながっているそうです。
籠城の時には兵糧米を運んだり、城兵の出入にも困らなかったそうです。
さすがは真田昌幸、抜け目がないですね( ´艸`)
+-眞田神社拝殿の移り変わり-+

眞田神社 拝殿(2009.5.4旦那撮影)
この頃はまだ屋根の千鳥破風などがないシンプルな拝殿でした。
御朱印集めが流行る前だったので、参拝される方は戦国ファンやお年寄りが多かったです。

眞田神社 拝殿(2011.7.1旦那撮影)
浜縁や屋根には千鳥破風が造られるなど、拝殿は綺麗に改修されていました。

眞田神社 拝殿(2022.6.9撮影)
前回訪問時から11年経って、千鳥破風や浜縁の真新しかった白木も、だいぶ黒くなって渋みが出てました。
境内には真田信繁公の銅像や伊勢神宮内宮遙拝所が設けられ、社務所前には「御朱印」の幟旗が立ち、多くの参拝者がいらっしゃいました。
お賽銭箱も大きくなり、社務所も御朱印専用窓口ができてお守りなどの種類もかなり豊富になっていました。
御朱印やお守りの郵送頒布にも対応してますのでご希望の方は、眞田神社公式HPをチェックしてみて下さい。
上田城跡は、ただの史跡ではなく、真田昌幸の知略や覚悟が今も静かに息づく場所でした。
城の構えや地形、そして伝わる戦いの記録を辿ることで、当時の緊張感や駆け引きがよりリアルに感じられます。
そして、そんな歴史の舞台でいただく御朱印は、単なる記念ではなく、その土地の物語を持ち帰るような特別な一枚。
季節ごとに変わる意匠や直書きの温かみも、大きな魅力のひとつです。
歴史が好きな方はもちろん、御朱印巡りを楽しんでいる方にもぜひ訪れてほしい場所。
次に訪れるときは、また違う季節の御朱印とともに、さらに深くこの地の魅力を感じてみたいと思います。
2022.06.09参拝


「眞田神社」
所在地:長野県上田市二の丸1-12
駐車場:あり(無料)※一部有料化の動きあり
アクセス:上田駅から徒歩約15分
戦国時代、徳川家康を二度も退けた名城として知られる上田城。
その築城主・真田昌幸は、豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評されたほどの智将でした。
そんな歴史の舞台となった上田城跡を訪れ、今回は眞田神社の御朱印を目的にゆっくりと巡ってきました。
これまで城跡の見学が中心だった訪問とは違い、境内の空気や歴史の重なりを感じながらの参拝は、またひと味違う魅力があります。
季節限定の御朱印や月替わりの御朱印、さらには枚数限定の特別な御朱印まで拝受することができ、歴史好き・御朱印好きの私には、たまらないひとときとなりました。
戦国の知略が息づく地でいただく御朱印には、どこか特別な重みが感じられます。
ご利益: 「落ちない・負けない」ことから、受験生や試合前の参拝者が多く訪れます。
勝負運、知恵の神様、開運、学業成就などのご利益があるとされています。

眞田神社には3度目となる訪問です。
1,2回目は旦那の上田城の見学が目的でしたが、今回初めて眞田神社の参詣と御朱印拝受を目的として伺いました。

■眞田神社の歴史
眞田神社は明治12年(1879年)旧上田藩士や旧領内有志によって藤井松平氏初代の忠山公、二代・忠昭公、そして藤井松平氏の初代上田藩主・三代・忠周公のご霊璽をお祀りする神社として創建されました。
創建当初は「松平神社」と称していましたが、、昭和28年(1953年)に上田城の築城者である真田氏と、真田氏のあとに上田藩主となった仙谷氏、そしてそののち幕末まで藩主を務めた藤井松平氏の歴代城主が合祀され「上田神社」と改称しました。
しかし、市内には同名他社が存在し紛らわしいとの事から、昭和38年(1963年)に上田城初代城主で築城者でもある真田昌幸公の名を冠して「眞田神社」と改称し現在に至ります。

眞田神社拝殿
拝殿前には六文銭がデザインされた写真撮影用のパネルが設置されていました。
お賽銭箱の上の赤い六文銭に手をかざすと、鈴の音が聞こえてきます。

境内には「青年 真田幸村公の像」が建てられていました。
実は、真田幸村は上田城で過ごした期間はとっても短かったんです。
第一次上田合戦の際には、越後・上杉景勝の元へ人質として赴ていて参陣していませんでしたし、その後、豊臣家臣となった真田昌幸は、幸村を人質として大阪へ送っていたので、幸村の上田入城は慶長5年(1600年)、徳川家康の会津・上杉氏討伐の時、徳川方から離反して上田城に入ったのが初めてだったとも考えられます。
更に、歴史好きの方には周知の事実ですが、真田幸村が生前、幸村と名乗った事はなく、江戸時代に書かれた軍記物に初めて幸村と表記され、幸の字が真田氏のルーツであった海野氏の通字だった事と、村の字が、なにかと因縁のあった徳川家に伝わる妖刀伝説の「村正」を連想させ、庶民の間で広く定着していったそうです。
幸村という名前が幅広く定着してしまったため、真田氏の正式な記録にまで幸村が使われるようになったんだそうですよ。
幸村の本名は真田信繁で、昌幸は、仕えていた武田信玄の実弟・信繁のように、兄・信幸を裏切る事なく支えるよう願って付けた名前なのかも知れませんね。

季節限定見開き「夏越祓御朱印」
直書きで初穂料は500円と、とっても良心的です。
月替わりの御朱印も直書きで初穂料300円なのに、めちゃめちゃクオリティーが高くて、遠方の方は郵送で拝受されても絶対に満足できると思います。

二ノ丸跡の上田城跡公園にあった真田幸村公の山車、お祭りで曳かれるものなのでしょうか?

「上田城 南櫓と東虎口櫓門」
二度も徳川の大軍を退けた上田城、築城者の真田昌幸は豊臣秀吉から
「表裏比興の者」
と評されるほどの智将だったそうです。
昌幸のお父さんの幸隆も知略に優れた武将で、武田信玄が大敗した砥石城を、調略によってわずか1日で攻略した凄い武将だったそうです。
💡「表裏比興の者」とは?
「老獪な策略家」「食わせ者」という意味の言葉で、小大名ながら周囲の大国を翻弄して生き抜いた、狡猾さと才覚を称えた言葉です。
+---徹底解説、上田合戦---+
徳川の大軍を2度も退けた真田昌幸、上田城を舞台に繰り広げられた上田合戦を小説仕立てで紹介します。
---第一次上田合戦---
天正10年(1582年)6月――
本能寺の変。
織田信長、横死。
天下の均衡は、一夜にして崩れ去った。
同年2月、信長によって滅ぼされた武田家。
その旧領――甲斐・信濃・上野は、統治者を失い“空白地帯”となる。
織田の支配は崩壊し、家臣たちは次々と撤退。
その隙を狙い、三人の大名が動き出す。
越後の上杉景勝。
相模の北条氏直。
そして三河の徳川家康。
武田の遺領を巡る争奪戦――
「天正壬午の乱」が幕を開けた。
その渦中にいたのが、真田昌幸である。
当初、昌幸は北条方に属していた。
だが、情勢を見極めると――
「勝つ側につく」
迷いなく、徳川家康へと寝返る。
そして、西上野を巡り、かつての主・北条と刃を交えた。
しかし、戦国は理では動かない。
天正10年(1582年)10月。
北条と徳川が突如、和議を結ぶ。
その条件は――
上野沼田は北条領。
信濃佐久は徳川領。
すなわち、真田の領地は「勝手に」切り分けられたのだった。
「ふざけるな……」
昌幸は、静かに牙を剥く。
天正11年(1583年)。
昌幸は、新たな拠点の構築に着手する。
信濃・上田。
ここに築かれるのが、後に名城と謳われる――上田城である。
そして天正13年(1585年)。
ついに決断の時が来る。
徳川家康からの命令――
「沼田を明け渡せ」
これを、昌幸は拒否した。
さらに一手。
次男・信繁(後の幸村)を人質として上杉景勝へ差し出し、
上杉に臣従。
徳川からの離反を、明確に示した。
その瞬間――
真田は、すべてを敵に回した。
築城中の上田城にも、変化が現れる。
当初、北の上杉に備えて設けられるはずだった大手門。
それは東へと変更される。
敵は――徳川。
そう、定まったのだ。
同年7月。
遠江・浜松。
家康のもとに報せが届く。
「真田昌幸、謀反」
――激怒。
ただちに討伐命令が下された。
8月。
鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らが率いる、七千の大軍。
上田盆地へ侵攻。
対する真田軍――わずか一千二百。
圧倒的兵力差。
だが、昌幸は動じない。
本城・上田城に籠る昌幸。
砥石城には嫡男・信幸。
矢沢城には一族・矢沢頼康。
さらに上杉の援軍。
三点を結ぶ、防衛線が完成する。
すべては――計算の内。
戦いは始まった。
徳川軍は猛攻を仕掛け、ついに二ノ丸へ侵入。
だが、それすら昌幸の“策”だった。
地形を知り尽くした防衛。
誘い込み、崩す。
徳川軍は、徐々に追い詰められていく。
やがて、退却。
だが――逃がさない。
昌幸、追撃開始。
さらに、砥石城より信幸隊が出撃。
側面から襲いかかる。
そして矢沢頼康も参戦。
三方からの挟撃。
徳川軍は崩壊した。
逃げる先は、神川。
だがそれは――死地。
押し込まれた兵は次々と川へ落ち、
溺死。
戦場は、一方的な殲滅戦へと変わった。
真田軍の損害――わずか40。
対して徳川軍は1300の兵を失う大敗。
これが――
第一次上田合戦。
家康は知る。
この男の危険さを。
知略、胆力、そして裏切りすら武器にする男――真田昌幸。
後年。
家康は一つの策を講じる。
重臣・本多忠勝の娘、小松姫を
昌幸の嫡男・信幸に嫁がせる。
敵ではなく――取り込むために。
それほどまでに、
真田昌幸という存在は、
“無視できぬ男”だったのである。
---第二次上田合戦---
慶長5年(1600年)6月――
天下は再び、乱れる。
豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は、
会津の上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、討伐を決断した。
「謀反の兆しあり」
その一言で、大軍が東へと動き出す。
この時、真田昌幸もまた、家康の陣にあった。
嫡男・信幸は、本多忠勝の娘婿。
次男・信繁もまた、父とともに従軍していた。
真田は、徳川の一員――
誰もがそう思っていた。
だが、その背後で動く影があった。
石田三成。
家康不在の隙を突き、挙兵。
毛利輝元を総大将に据え、
「徳川家康弾劾状」を諸大名へ送りつける。
天下を二分する戦い――
関ヶ原の火種が、ここに灯った。
下野・犬伏。
ここで、運命が分かれる。
三成の書状を受け取った昌幸は、決断する。
嫡男・信幸を東軍に残し――
次男・信繁とともに、西軍へ。
父と弟は西へ。
兄は東へ。
真田一族、分裂。
それは、生き残るための策だった。
昌幸は、ただちに上田へ引き返す。
再び、あの城が舞台となる。
家康は動く。
息子・徳川秀忠に、3万8千の大軍を与えた。
本多正信、榊原康政、大久保忠隣――
歴戦の猛将を従え、中山道制圧を命じる。
目的はただ一つ。
――西軍との決戦へ、間に合うこと。
9月2日。
秀忠軍、信濃・小諸城へ入る。
対する昌幸――兵わずか2千。
圧倒的戦力差。
だが、昌幸は動じない。
翌3日。
昌幸は、意外な手を打つ。
「城を明け渡そう」
信幸を通じ、降伏と助命を申し入れた。
初陣の秀忠は、これを受け入れる。
「恐れたか」
そう、侮った。
だが――
翌日。
昌幸の態度は、一変する。
挑発。
あからさまな裏切り。
「なめるな……!」
秀忠、激怒。
上田城攻略を決断する。
9月5日。
秀忠は、砥石城攻めを命じる。
守るは、信繁。
だが――
信繁は戦わずして撤退。
上田城へ。
すべては、誘い。
6日。
上田城、完全包囲。
秀忠は、兵糧を断つべく稲の刈り取りを命じる。
これに対し、真田勢が迎撃。
小競り合いが続く。
時間だけが、過ぎていく。
その時。
軍監・榊原康政が進言する。
「上田城は捨てよ。
関ヶ原へ急ぐべし」
正論だった。
だが――
秀忠は、耳を貸さない。
昌幸への怒りが、判断を狂わせていた。
そして9月8日。
家康からの書状が届く。
「9日までに美濃赤坂へ着陣せよ」
その瞬間、秀忠は悟る。
――はめられた。
昌幸の狙いは、最初からこれだった。
足止め。
ただ、それだけのために。
上田城攻略、断念。
全軍、撤退。
関ヶ原へ、急行。
だが、間に合わない。
中山道は狭く大軍の移動は困難、
さらに大雨で川は氾濫。
進めど進めど、進めない。
そして――
9月15日。
関ヶ原、開戦。
だがそこに、秀忠軍の姿はなかった。
家康、激怒。
徳川家の嫡男は、天下分け目の決戦に間に合わなかった。
すべては――
真田昌幸、ただ一人に翻弄された結果だった。
戦後。
東軍の勝利。
秀忠を苦しめた昌幸と信繁は敗者となる。
紀伊・九度山へ配流。
天下に名を轟かせた策士は、表舞台から姿を消した。
一方、東軍に残った信幸は生き残る。
名を信之と改め、上田の地を与えられる。
真田は、途絶えなかった。
だが――
家康は忘れない。
二度にわたり、煮え湯を飲まされた城。
上田城。
それは、徹底的に破壊された。
もはや城ではない。
“消された”のだ。
その後、時代は移る。
真田は松代へ。
上田には仙石、そして松平。
城は再建されるも、かつての姿には戻らない。
だが、記憶は残る。
わずか二千で三万八千を翻弄した男。
天下を遅らせた城。
上田。
それは――
真田昌幸という「異才」が刻んだ、戦国最後の罠であった。

眞田神社の境内に残る「真田井戸」
この井戸、実は抜け穴となっていて、城北にある砦につながっているそうです。
籠城の時には兵糧米を運んだり、城兵の出入にも困らなかったそうです。
さすがは真田昌幸、抜け目がないですね( ´艸`)
+-眞田神社拝殿の移り変わり-+

眞田神社 拝殿(2009.5.4旦那撮影)
この頃はまだ屋根の千鳥破風などがないシンプルな拝殿でした。
御朱印集めが流行る前だったので、参拝される方は戦国ファンやお年寄りが多かったです。

眞田神社 拝殿(2011.7.1旦那撮影)
浜縁や屋根には千鳥破風が造られるなど、拝殿は綺麗に改修されていました。

眞田神社 拝殿(2022.6.9撮影)
前回訪問時から11年経って、千鳥破風や浜縁の真新しかった白木も、だいぶ黒くなって渋みが出てました。
境内には真田信繁公の銅像や伊勢神宮内宮遙拝所が設けられ、社務所前には「御朱印」の幟旗が立ち、多くの参拝者がいらっしゃいました。
お賽銭箱も大きくなり、社務所も御朱印専用窓口ができてお守りなどの種類もかなり豊富になっていました。
御朱印やお守りの郵送頒布にも対応してますのでご希望の方は、眞田神社公式HPをチェックしてみて下さい。
上田城跡は、ただの史跡ではなく、真田昌幸の知略や覚悟が今も静かに息づく場所でした。
城の構えや地形、そして伝わる戦いの記録を辿ることで、当時の緊張感や駆け引きがよりリアルに感じられます。
そして、そんな歴史の舞台でいただく御朱印は、単なる記念ではなく、その土地の物語を持ち帰るような特別な一枚。
季節ごとに変わる意匠や直書きの温かみも、大きな魅力のひとつです。
歴史が好きな方はもちろん、御朱印巡りを楽しんでいる方にもぜひ訪れてほしい場所。
次に訪れるときは、また違う季節の御朱印とともに、さらに深くこの地の魅力を感じてみたいと思います。
2022.07.25 18:34 | comment(0)
