天照山良忠院勝願寺(てんしょうざん りょうちゅういん しょうがんじ)で御朱印を頂きました。
参拝日:2023.05.24

迫力満点の仁王門
「天照山良忠院勝願寺」
所在地:鴻巣市本町8-2-31
駐車場:無料🅿有
アクセス:JR高崎線「鴻巣駅」東口から徒歩約10分
埼玉県鴻巣市にある「天照山 勝願寺」。
一歩足を踏み入れると、そこには徳川家康公ゆかりの「三つ葉葵」が随所に輝き、かつて関東十八檀林(僧侶の学問所)として栄えた厳かな空気が漂っています。
今日ご紹介したいのは、この寺に眠るひとりの女性、小松姫(稲姫)の物語です。
■徳川と真田を繋いだ「家康の養女」
小松姫は、徳川四天王の一人・本多忠勝の娘として生まれ、その聡明さと美貌から家康公の養女として迎えられました。
そして、信州の雄・真田昌幸の長男、真田信之へと嫁ぎます。
しかし、運命のいたずらか、関ヶ原の戦いで真田家は「父・弟(昌幸・幸村)」の西軍と、「夫(信之)」の東軍に分かれることになってしまいました。
■伝説の「沼田城登城拒否」
有名な逸話があります。
関ヶ原へ向かう途中の父・昌幸が、孫の顔を見ようと信之の留守にする沼田城を訪れました。
しかし、小松姫は「今は敵味方。たとえ舅殿(しゅうとのど)でも城には入れられませぬ」と武装して門を閉ざしたのです。
一方で、密かに城外の寺へ子供を連れて会いに行き、家族としての情を尽くしたとも伝えられています。
「公の義」と「私の情」、その両方を貫いた彼女の強さは、今も語り草となっています。
■なぜ鴻巣の「勝願寺」に眠っているのか?
小松姫は元和6年、病気療養のため草津温泉へ向かう途中に、ここ武蔵国鴻巣で波乱の生涯を閉じました。享年48歳。
彼女の死を嘆いた夫・信之は、当時から親交の深かった勝願寺にその分骨を納め、立派な墓所を建立しました。
現在も境内には、信之・信政親子と共に小松姫の墓(宝篋印塔)が静かに並んでいます。
■現代に息づく「人形のまち」の守り神
勝願寺がある鴻巣市は、日本屈指の「人形のまち」としても有名です。
毎年11月には、この勝願寺で大規模な人形供養が行われます。
大切にされてきた人形たちを供養するその光景は、どこか小松姫が家族を想い続けた深い愛情とリンクするように感じられます。

「本堂」
勝願寺の創建は浄土宗第3祖良忠が、鎌倉幕府第4代執権北条経時から箕田郷松ヶ岡(後の鴻巣市登戸)の地を寄進され、一宇を建立したことに始まり、良忠の師である勝願院良遍にちなんで勝願寺と名付けられたと伝わります。
創建の時期については建長4年(1252年)、正治元年(1199年)、文永年間(1264年~1274年)、文永元年(1264年)ともいわれ、箕田郷松ヶ岡の地の寄進者については鎌倉幕府第5代執権北条時頼とする文献もあるそうです。
天正7年(1579年)武州松山城主・上田氏一族の出である円誉不残が住職となり、文禄元年(1592年)2月に徳川家康が当寺を訪れた際、学徳の高かった不残が御前で法問論議を行うと、学徳に感銘を受けた家康から銀・玄米・和紙を贈られ、随行していた家臣の伊奈忠政と伊奈忠家、牧野康成らに当寺の檀家になるように命じられたそうです。
さらに、家康は三つ葉葵紋の使用を許可し、慶長9年(1604年)11月には寺領30石を寄進され、諸役免除となりました。
家康はたびたび鴻巣および当寺を訪れましたが、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠や3代将軍徳川家光も家康と同様に当寺を詣でるなど、家康没後も徳川家との関係は維持されたそうです。

御朱印はこちらの新しい寺務所で頂けます。

ご本尊の直書きで300円です。
勝願寺の境内を歩くと、小松姫の墓所だけ少し空気が凛としている気がします。
徳川と真田、二つの大きな家を支え抜いた彼女の強さに触れに、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか?
春には美しい桜が、歴史の面影を優しく彩ってくれますよ。

仁王門を出た所で二匹の猫が仲良く陽なたぼっこしてました😺