武田信玄の天才軍師 山本勘助が縄張りしたと伝わる小諸城址に建立された「懐古神社」で直書きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「懐古神社」
所在地:長野県小諸市丁本丸跡314
駐車場:あり(有料500円)
アクセス:しなの鉄道「小諸駅」から徒歩約3分
信濃の要衝として知られる小諸城。
この城は、武田信玄の天才軍師・山本勘助が縄張りしたとも伝わる、戦国ロマンあふれる城郭です。
現在は「懐古園」として整備され、歴史を感じながら散策できる人気スポットとなっていますが、その本丸跡にはひっそりと佇む神社があります。
それが、今回参拝した「懐古神社」です。
小諸藩ゆかりの神々が祀られるこの神社で、直書きの御朱印をいただきながら、かつての戦国の舞台に思いを馳せてきました。
今回は、山本勘助ゆかりの小諸城址とともに、懐古神社の魅力をご紹介します。
■懐古神社の歴史
懐古神社は小諸城址本丸跡の一角に鎮座しています。
明治13年(1881年)4月、小諸城跡を懐古園として整備した際に、旧小諸藩の有志によって、小諸藩を治めた牧野氏歴代藩主の御霊を、藩政時代より城内の鎮守神として祀られていた天満宮・火魂社と合祀して建立されました。

「鳥居」
参道を進むと石鳥居が建っていて、鳥居左側には池があり錦鯉が悠々と泳いでいました。

「懐古神社 社殿」
昭和62年(1987年)11月に改築されたものだそうです。

「鏡石」
社務所の手前には鏡石といわれる武田信玄の軍師・山本勘助が愛用していたと伝わる石があります。
■山本勘助
武田の五名臣の一人にも数えられる、伝説的な天才軍師・山本勘助。
かつてはその存在自体が疑問視されていましたが、近年の研究により「山本菅助」という武将の記録が確認され、実在していた可能性は極めて高いと考えられています。
勘助は明応2年(1493年)、駿河国富士郡山本村の武士・山本(吉野)貞幸と妻・安の四男として誕生。
のちに三河国牛窪城主・牧野氏の家臣である大林勘左衛門の養子になったと伝わります。
天文5年(1536年)、浪人となっていた勘助は、駿河国主・今川義元への仕官を目指します。
家老・庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣・朝比奈信置を通じて仕官を願い出ました。
しかし、色黒で容貌が醜く、隻眼で傷だらけ、足も不自由という風貌を義元に嫌われ、召し抱えられることはありませんでした。
さらに、剣術で手柄を立てても流行の新当流ではなく京流だったため、評価されることはなかったといわれています。
その後、天文12年(1543年)。
駿河に優れた兵法家がいると聞いた武田家臣・板垣信方が、主君・武田晴信(信玄)に勘助を推挙します。
武田家は破格の知行100貫で召し抱える意向を示し、勘助は甲府の躑躅ヶ崎館へ出仕。
晴信は勘助と対面すると、その才能を見抜き、さらに知行を200貫に引き上げて召し抱えました。
こうして勘助は武田家に仕え、信濃侵攻において数々の策を用いて活躍し、やがて軍師的な立場にまで昇りつめていきます。
もっとも、「軍師」として語られるようになったのは江戸時代以降であり、当時の史料にはそのような記述は一切ありません。
また、数々の逸話についても年代の不一致や誇張が見られ、史実としては疑問が残る部分もあります。
それでも、信玄が側近として重用した事実から、勘助が優れた知略と知識を持っていた人物であったことは間違いないでしょう。
ちなみに、「ヤマカン(山勘)」という“当てずっぽう”を意味する言葉は、山本勘助に由来するとされています。
天文22年(1553年)、武田家は北信濃に海津城を築城。
この縄張りを任されたのが勘助でした。
城主・春日虎綱(高坂昌信)はその出来を「武略の粋」と称賛し、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれるほど高く評価されました。
また、重臣・馬場信春にもその技術が伝えられたといわれています。
さらに、武田家の分国法として有名な「甲州法度之次第」も、勘助が晴信に献策したものとされています。
そして永禄4年(1561年)、第四次川中島の戦い。
勘助は「啄木鳥の戦法」を献策しますが、これが上杉政虎(謙信)に見破られてしまいます。
危機に陥った本陣を守るため、勘助はわずかな手勢で敵中に突撃。
13騎を討ち取る奮戦を見せたものの、上杉軍先鋒・柿崎景家の軍勢に包囲され、四方から槍を受けて落馬。
最期は柿崎配下の坂木磯八に討ち取られました。
なお、その首級は山本勢によって奪い返されたと伝えられています。

直書きで頂いた御朱印
+-小諸城-+
「小諸城大手門」(2011.07.11旦那撮影)
■小諸城の歴史
長享元年(1487年)、小笠原氏一族の大井光忠によって築かれた鍋蓋城、そしてその子・光為が築いた出城・乙女坂城。
これらが小諸城のはじまりと伝えられています。
天文22年(1553年)、甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻。
鍋蓋城・乙女坂城などを攻略すると、軍師・山本勘助に東信濃の拠点となる城の築城を命じました。
勘助は両城を縄張りに取り込んだ大規模な城郭を築き、翌・天文23年(1554年)に小諸城が完成。
城代には譜代家老・春日虎綱(高坂昌信)が置かれました。
その後、永禄3年(1560年)には春日虎綱が海津城の守将となったため、後任として武田一門の下曾根浄喜が城代となります。
天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐が始まると情勢は一変します。
武田家が劣勢に立たされる中、当主・武田勝頼は岩殿城へ、信玄の弟・信繁の子である武田信豊は小諸城へ逃れました。
しかし、小諸城代の下曾根浄喜は信豊を裏切り、城内で討ち取ってその首級を信長に差し出します。
ところが、同族を裏切った行為を信長に咎められ、浄喜は誅殺されてしまいました。
やがて天目山で勝頼が自刃し、武田氏は滅亡。
その後、信長により関東支配を任された滝川一益が上野・信濃を与えられ、小諸城には家臣・道家正栄が城代として入ります。
しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死。
甲斐・信濃では武田旧臣による一揆が起こり、織田勢は各地から撤退することとなりました。
こうして空白地帯となった旧武田領をめぐり、「天正壬午の乱」が勃発します。
北条氏直は大軍を率いて上野へ侵攻し、滝川一益を破って勢力を拡大。
さらに信濃へ進出し、佐久・小県郡から諏訪方面まで制圧しました。
しかし、徳川家康軍との対峙や、真田昌幸の離反、補給線の遮断などにより戦況は悪化。
最終的に徳川方と和睦し、領地は上野を北条、甲斐・信濃を徳川が分け合う形となりました。
その後、小諸城には徳川家康のもとで松平康国が入城。
さらに天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、家康は関東へ移封され、小諸城には仙石秀久が5万石で入封しました。
慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸幕府を開くと、仙石秀久は小諸藩の藩祖となり、城の大改修や城下町の整備を進めます。
しかし元和8年(1622年)、2代藩主・仙石忠政が上田へ移封されると小諸藩は一度廃藩。
その後は徳川忠長の領地となり、城代による統治が行われました。
寛永元年(1624年)、松平憲良の入封によって小諸藩が再び立藩。
以降、藩主は青山氏、酒井氏、西尾氏、松平氏と交代し、元禄15年(1702年)に牧野康重が入封。
以後は約170年にわたり、牧野氏の居城として続きました。

「小諸城三之門」(2011.07.11旦那撮影)
懐古園の入口となる小諸城三之門。
門をくぐると入園券の販売所があり、神社参拝や園内散策のみの場合は300円で入園できます。
また、500円の入園券を購入すれば、小諸市動物園や小諸市児童遊園地にも入ることができるため、小さなお子様連れの方にもおすすめです。
この三之門は、元和元年(1615年)、初代小諸藩主・仙石秀久が城を近世城郭へと大改修した際に設けられました。
しかし、寛保2年(1742年)8月1日、千曲川流域を襲った大水害によって流失。
現在の門は、明和3年(1766年)に牧野氏3代藩主・牧野康満によって再建されたものです。
なお、門に掲げられている「懐古園」の扁額は、徳川宗家16代当主・徳川家達の筆によるもの。
この三之門は国指定重要文化財に指定されていますが、その所有者は懐古神社となっています。

「小諸城 天守台石垣」(2011.07.11旦那撮影)
小諸城には仙石秀久が大改修した時に桐紋の金箔押瓦が用いられた三重天守が建てられましたが、寛永3年(1626年)に落雷によって焼失してしまいました。

「大河ドラマ 風林火山とコラボした城址案内板」 (2011.07.11旦那撮影)
小諸城の縄張りは武田信玄の軍師・山本勘助によるものだといわれています。
2011年7月に行った時には勘助ゆかりの城跡という事で、2007年にNHKで放送された内野聖陽さん主演の大河ドラマ「風林火山」で、信玄の実弟・信繁役を演じた嘉島典俊さんの書による小諸城の案内板が設置されていました。
山本勘助が縄張りしたと伝わる小諸城址。
その歴史の中に佇む懐古神社は、戦国から江戸へと続く時代の流れを静かに伝えてくれる場所でした。
城跡を歩きながら当時の攻防に思いを巡らせ、神社で手を合わせ、御朱印をいただく――。
歴史好きにとってはたまらない、充実した時間を過ごすことができます。
駅から徒歩すぐというアクセスの良さも魅力なので、気軽に訪れることができるのも嬉しいポイントです。
戦国ロマンを感じたい方、御朱印巡りを楽しみたい方は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。