小諸鹿嶋神社
豊臣秀吉最古参の家臣 「無」の旗印を掲げる小諸城主 仙石秀久も崇敬した「小諸鹿嶋神社」で書置きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

小諸鹿嶋神社の創建時期などは不明です。
境内には7~8世紀ころの古墳があったそうで、歴史は相当古い神社という事は間違いなさそうです。
天正18年(1590年)豊臣秀吉から小諸領5万石を与えられ小諸城主となった仙石秀久が徳川幕府より初代小諸藩主に任じられると、小諸城の大改修を行った際に小諸城の鎮守社として社殿の造営を行なったそうです。

「小諸鹿嶋神社」
長野県小諸市古城雉子原丁221-2


小諸城大手門付近に鎮座していた鹿嶋神社でしたが、昭和24年(1949年)に小諸駅周辺の区画整備により現在の場所に遷座されました。


「社殿」
小諸鹿嶋神社は無人社なので、宮司さんに神社の詳細をお聞きする事が出来ませんでした。
初代小諸藩主・仙石秀久は当時、鹿嶋郭と呼ばれていた大手門近くの鹿嶋神社の社殿を造営しました。
鹿嶋神社は歴代の小諸藩主から崇敬を受け、手厚く保護されたそうです。

仙石秀久
仙石家は藤原北家魚名流・藤原利仁を家祖としていましたが、清和源氏の名門一族・土岐氏の血統であった親族・仙石久重が仙石家当主・仙石基秀の娘を妻に迎えて家督を継ぐと、土岐源氏支流として源氏を称するようになりました。
仙石家は美濃の守護大名・土岐氏の家臣でしたが、土岐氏を追放し美濃の国主となった斉藤道三に仕えるようになりました。
秀久は天文21年(1552年)1月26日、斉藤家臣・仙石治兵衛久盛の四男として生まれましたが、家督を相続する権利がなかったために誼を通じていた越前の豪族・萩原国満に養子として出されました。
永禄年間、尾張の織田信長が台頭し、美濃国主となっていた道三の孫・斎藤龍興との争いが激化する中で、仙石家の嫡男が討死すると父・久盛から呼び戻されて仙石家の家督を相続しました。
永禄10年(1567年)斉藤家の有力家臣だった西美濃三人衆の稲葉良通(一鉄)・安藤守就(道足)・氏家直元(卜全)が龍興を見限って信長に内応し、斉藤氏の本拠・稲葉山城が落城すると、主君・斎藤龍興が伊勢・長島へと落ち延びたため、14歳だった秀久は助命され、信長の家臣・木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)の与力武将として織田家に取り立てられました。
秀久は秀吉の馬廻衆を務め各地を転戦していましたが、元亀元年(1570年)織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と争った姉川の戦いで、浅井方の山崎新平を討ち取る武功を挙げると、天正2年(1574年)秀吉から近江国野洲郡に千石の所領を与えられました。
秀吉の中国攻めにも参陣し活躍すると、天正6年(1578年)には4千石を加増され、翌年、摂津国茶臼山城を与えられました。
天正9年(1581年)秀吉の軍師・黒田孝高らと淡路島に渡り、毛利方の菅達長が守る岩屋城・由良城を陥落させました。
天正10年(1582年)6月3日、主君・織田信長が本能寺で明智光秀の謀反により横死したとの情報を得た秀吉は、対峙していた毛利家と和睦を結ぶと、秀吉軍は光秀を討つために畿内へ急行しました。
秀久は淡路で明智光秀に与した豪族の討伐を任され、明智方の豪族を打ち破り淡路平定に貢献しました。
天正11年(1583年)3月から秀吉が織田家筆頭家老・柴田勝家と争った賤ヶ岳の戦いで、秀久は四国の抑えとして淡路に入ると、菅達長を破ったのち小豆島を占領、秀吉方の十河存保を救援するために四国へ渡り讃岐国引田城に入りました。
4月21日、柴田方の長宗我部家臣・香川信景の部隊が引田城近くまで進軍してきたため、秀久は伏兵を配して迎撃し、緒戦は優勢でしたが、兵力で勝る香川隊が態勢を立て直すと徐々に押され、駆けつけた長宗我部の援軍の攻撃によって引田城へ撤退しました。
翌日、長宗我部軍に囲まれた引田城は総攻撃を受けると落城し秀久は敗走しましたが、この合戦中に幟を長宗我部勢に取られるという大失態を犯してしまったそうです。
敗戦後、淡路島と小豆島の守備を固め、瀬戸内の制海権を維持することに成功して四国勢を牽制しました。
秀久は淡路平定の軍功によって淡路国5万石を与えられ大名となり、淡路国津名郡の洲本城に入城しました。
洲本城主となった秀久は、淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括して、紀州征伐では湯川一族討伐で戦功を挙げました。
秀吉本隊による四国討伐の際には喜岡城を攻略、木津城攻めでは城内の水源を絶つなど活躍しました。
天正13年(1585年)四国攻めの軍功によって讃岐1国(2万石は十河氏領)を与えられるまでに出世しました。
天正14年(1586年)9月、豊後の大名・大友宗麟(義鎮)からの求めに応じ、関白となっていた秀吉は九州の島津家討伐を決定し、劣勢にあった大友氏の救援のため、軍監に秀久を任じて長宗我部元親、十河存保らの四国勢を豊後に派遣、大友勢に加勢させました。
12月12日、豊後府内城に駐留していた秀久は、豊後に留まり、持久戦に徹するよう秀吉から書状を受け取っていましたが、島津家久の軍勢に攻められた豊後鶴賀城では、城主で大友家の重臣・利光宗魚が討死し、島津家久・島津義弘の軍勢に府内城が挟撃される危機が迫り焦った秀久は、家久の軍を食い止めるために四国勢6千の兵を戸次川に進め、家久が指揮を執る島津軍1万と戦となりました。
島津軍は部隊を三隊に分けて、二隊を敵陣の左右に伏兵として配し、味方の陣中深く進撃してきたところを三方向から囲んで殲滅するという島津軍得意の「釣り野伏せ」という策で臨み、島津勢に攻めかかる秀久の部隊に壊滅的な損害を与えると、豊臣軍第二陣の長宗我部信親隊と十河存保隊も総崩れとなり、信親・存保は討死してしまいました。
軍監役である秀久も敗残兵を取りまとめる責務を放棄して小倉城へと逃亡してしまったため、第三陣に置いていた長宗我部元親隊は戦いに参加する余地もなく伊予国へ敗走する羽目となり、豊臣軍は島津軍の前に大敗北を喫してしまいました。
戸次川の戦いといわれるこの敗戦の責により、秀久は所領を没収され高野山に追放処分となりました。
天正18年(1590年)秀久は秀吉による小田原征伐の際に、三男・忠政と20名の旧臣、美濃で集めた浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じ、秀吉の盟友・徳川家康の取り成しを受けて参陣が許されました。
秀久は「糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織、紺地に無の字を白く出した馬印を真先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだ」といわれています。
さらには、敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけ「鈴鳴り武者」の異名をとったという逸話もあります。
十文字槍を振るい奮戦した秀久は、伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという武功を挙げ、この時の活躍によって「箱根にある仙石原は、秀久の武勇に由来する」という話まで伝わっています。
北条家滅亡後、戦功が認められ赦免された秀久は、秀吉に金の団扇を下賜され、信濃国小諸5万石を与えられ小諸城主となりました。
文禄元年(1592年)朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任、文禄3年(1594年)伏見城築城工事でも功績を認められ、7千石を加増されました。
築城に関わった伏見城では大盗賊・石川五右衛門を捕縛して、秀吉から五右衛門が盗もうとした「千鳥の香炉」を褒美として拝領したとの伝承があります。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは懇意にしていた徳川方の東軍に与し、中山道の鎮圧を家康から任された徳川秀忠が信濃に入った際には単騎で出迎えたそうです。
上田城の真田攻めの本陣を小諸に定めた秀忠の軍に参陣し、第二次上田合戦で真田昌幸に秀忠軍が足止めされると、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の元に向かう様に進言し、関ヶ原に遅参して家康の勘気をかった秀忠の執り成しも務めるなど、外様大名ながら秀忠を補佐して信頼され、秀忠が家康の後継者として征夷大将軍となると、徳川幕府から重用されるようになりました。
※第二次上田合戦の詳細は眞田神社に書いています。
幕府から本領安堵された秀久は、初代小諸藩主として領内の整備や小諸城の大改修に着手し、大手門や黒門、二の丸を増築して、小諸城を近代城郭として完成させました。
慶長13年(1608年)の冬には、秀忠が直々に江戸の秀久邸を訪れるほど幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の外様大名では異例の厚遇で、秀忠付という名誉職を賜っています。
秀久が江戸に参府する際には道中の妻子同伴が許され、幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたそうです。
慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されています。
慶長19年(1614年)江戸から小諸への帰途に病にかかり、武州鴻巣にて5月6日に死去しました。


書置きで頂いた御朱印。
御朱印はお賽銭箱の横にあります。
初穂料500円はお賽銭箱に入れて下さい。


「そば蔵 丁子庵」
今回の御朱印巡りの最後に小諸で絶対に食べたかったお蕎麦屋さんに寄りました。
鹿嶋神社から車で5分くらいのところにあります。
テレビでも紹介されるほど小諸では有名なお店で、コロナ前は行列ができる事もあったそうです。


写真では明るい感じになってしまってますが、店内は暗めの照明効果もあって、レトロな雰囲気の漂うとても落ち着いた感じの店内です。
店内にはレトロな小物などが展示されていて、丁子庵さんを訪れた芸能人のサインも飾られていました。


「天ざる辛味大根おろしそば(大盛)」
少々お値段は張りますが、茄子の天婦羅はお味噌が挟んであって最高でした。
お蕎麦はのど越しもよく蕎麦粉の香りがしっかりとして、本当においしかったです。
大盛を注文したのは旦那です、私は普通盛でした(;・∀・)
2022.08.20 23:15 | comment(0)
懐古神社
武田信玄の天才軍師 山本勘助が縄張りしたと伝わる小諸城址に建立された「懐古神社」で直書きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「懐古神社 参道」
懐古神社は小諸城址本丸跡の一角に鎮座しています。
懐古神社の創建は明治13年(1881年)4月、小諸城跡を懐古園として整備した際に、旧小諸藩の有志によって、小諸藩を治めた牧野氏歴代藩主の御霊を、藩政時代より城内の鎮守神として祀られていた天満宮・火魂社と合祀して建立されました。

「懐古神社」
長野県小諸市丁本丸跡314


「鳥居」
参道を進むと石鳥居が建っていて、鳥居左側には池があり錦鯉が悠々と泳いでいました。


「懐古神社 社殿」
昭和62年(1987年)11月に改築されたものだそうです。


「鏡石」
社務所の手前には鏡石といわれる武田信玄の軍師・山本勘助が愛用していたと伝わる石があります。

山本勘助
武田の五名臣の一人にも数えられる伝説的天才軍師です。
歴史研究家からは存在が疑われていた「山本勘助」ですが、近年、歴史資料に「山本菅助」という武将の存在が確認され、実在していたのは間違いなさそうです。
勘助は明応2年(1493年)駿河国富士郡山本村の武士・山本(吉野)貞幸と妻・安の四男として生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣・大林勘左衛門の養子となったと伝わります。
天文5年(1536年)浪人だった勘助は、海道一の弓取りとも称された駿河国主・今川義元に仕官するため家老・庵原忠胤の屋敷に寄宿し、今川家重臣・朝比奈信置を通して仕官を志願しましたが、色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指も揃っていないという勘助の容貌を嫌った義元は召抱える事はなく、剣術で数回手柄を立てた時も流行の新当流ではなく京流だったため、認められる事はありませんでした。
天文12年(1543年)駿河国に優れた兵法家がいる事を聞きつけた武田家臣筆頭格・板垣信方は、主君・武田晴信(信玄)に勘助を推挙し、武田家は破格の条件の知行100貫で召し抱えると勘助に伝えました。
武田家の本拠・躑躅ヶ崎館に出仕した勘助は晴信と初めて対面しましたが、晴信は勘助の才能を見抜くと知行200貫で召し抱える事としました。
晴信が信濃国へ侵攻すると、勘助は様々な策を用いて活躍し、武田家の軍師にまで昇りつめました。
勘助には数々の伝説的エピソードがありますが、史実とは年代が違っていたり、負けた戦が勝ち戦になっていたり、信憑性には疑問が残りますが、信玄が側近に取り立てるほどの武将ですから策謀や知識が豊富だったのは間違いないと思います。
ちなみに、軍師と言われるようになったのは江戸時代になってからで、当時の資料には勘助が「軍師」との記録は一切ありません。
また、ヤマカンという当てずっぽうを意味する言葉は、山本勘助が由来の言葉です。
天文22年(1553年)武田家が北信濃に海津城を築きましたが、この城の縄張りは勘助が任されたもので、城主・春日虎綱(高坂昌信)は、海津城を「武略の粋が極められている」と称賛し、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれ、重臣・馬場信春も築城術を伝授されたそうです。
また、有名な分国法「甲州法度之次第」ですが、これを晴信に献策したのも勘助なんだそうです。
永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いで自身の献策した「啄木鳥の戦法」を上杉政虎(謙信)に見破られ、危険が迫った本陣を守るため、勘助は僅かな手勢で敵中に突撃して13騎を討取る働きをしましたが、猛将と名高い上杉家先鋒・柿崎景家の軍勢に囲まれると、四方八方から槍を突かれて落馬、柿崎配下の坂木磯八に討取られてしまいました。
勘助の首級は残った山本勢が柿崎勢から奪い返したそうです。


直書きで頂いた御朱印

+-小諸城-+

「小諸城大手門」(2011.07.11旦那撮影)

長享元年(1487年)小笠原氏一族の大井光忠によって築城された鍋蓋城、後に光忠の子・光為が築いた出城・乙女坂城が小諸城の発祥と伝わります。
天文22年(1553年)甲斐の武田信玄は信濃に侵攻すると鍋蓋城・乙女坂城など諸城を攻略、軍師・山本勘助に東信濃の拠点となる城の築城を命じました。
勘助は鍋蓋城・乙女坂城を縄張りに組み込んだ大規模な城郭の築城に着手し、天文23年(1554年)小諸城が完成すると、譜代家老・春日虎綱(高坂昌信)が城代となりました。
永禄3年(1560年)春日虎綱が越後上杉氏に対する最前線・海津城の守将を任されたため、後任として武田氏庶流の御一門衆・下曾根浄喜が小諸城代となりました。
天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により信濃侵攻が始まると、劣勢となった武田家では、当主・勝頼は譜代家老・小山田氏の岩殿城へ、信玄実弟・信繁の子・武田信豊は小諸城へ逃亡しました。
小諸城代だった下曾根浄喜は信豊を裏切って城内で討取ると、首級を信長に進上し降伏しましたが、信長は同じ一門衆を裏切った事を許さず、浄喜は誅殺されたそうです。
天目山で勝頼が自刃し武田氏が滅亡すると、信長より「関東御取次役」に任じられた織田家重臣の滝川一益が上野国と信濃小県郡・佐久郡を与えられ上野国厩橋城に入城し、小諸城には一益配下の道家正栄が佐久郡小諸2万石を託されて小諸城代となりました。
しかし同年6月2日、本能寺の変で信長が横死すると甲斐・信濃では武田家遺臣による国人一揆が起こり、信長から甲斐22万石と信濃諏訪郡を与えられていた織田家重臣の河尻秀隆が殺害され、甲斐・信濃に派遣されていた織田家臣は織田領へ逃亡しました。
空白地となった武田家遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、相模の北条氏直は4万の大軍を率いて一益の支配地となっていた上野侵攻を開始しました。
一益は神流川の戦いで北条氏直に敗れると上野・信濃を放棄し、碓氷峠から小諸城を経て本領である伊勢長島城に逃亡しました。
北条軍は信濃に進撃して佐久・小県郡を支配下に治めると、さらに諏訪へ侵入、叔母・真竜院の嫁ぎ先である木曾義昌とも協力して信濃中央部の攻略に成功しましたが、8月には甲斐に侵攻してきた徳川家康軍と甲斐・若神子において対陣しました。
この間、北条方の真田昌幸が離反し武田旧臣で徳川方の依田信蕃とともに東信濃において北条軍の補給線を寸断、さらには甲斐黒駒で別働隊の北条氏忠が徳川方の平岩親吉に敗北するなど戦況は悪化し、10月には織田信雄・信孝の調停によって徳川軍との和睦を受け入れました。
上野は北条家、甲斐信濃は徳川家の領有となり北条軍は甲斐信濃から撤退、天正11年(1583年)8月には徳川家康の娘・督姫が氏直に輿入れする事となり、徳川・北条の同盟が成立し両家は縁戚関係となりました。
小諸城には家康より松平姓を許された依田信藩の嫡男・松平康国が6万石で入城しました。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐により北条家が滅亡、戦後、徳川家康が関東に移封されると小諸城には秀吉の家臣・仙石秀久が5万石で入封しました。
慶長8年(1603年)徳川家康が江戸幕府を開き幕藩体制を開始、小諸藩の藩祖となった仙石秀久は小諸城の大改修や城下町の整備を進めました。
元和8年(1622年)小諸藩2代藩主・仙石忠政は信濃上田藩6万石へ加増移封となり小諸藩は廃藩、第2代将軍・徳川秀忠の3男・徳川忠長の甲府藩領となると、小諸城代は屋代秀正・三枝昌吉・依田守直らが務めたそうです。
寛永元年(1624年)松平憲良が美濃大垣藩より5万石で入封し小諸藩が復活、その後は青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、松平乗政、松平乗紀と藩主が代わり、元禄15年(1702年)に牧野康重が入封後は10代藩主・康済に至るまでの169年間、牧野氏の居城となりました。


「小諸城三之門」(2011.07.11旦那撮影)
懐古園入口となる小諸城三之門です。
門をくぐって中に入ると、懐古園の入園券が売っていますので、神社参拝や園内散策のみの方は300円を払って券を購入します。
500円の入園券を購入すると小諸市動物園や小諸市児童遊園地にも入る事が出来ますので、小さいお子様連れの方はお子様が喜ぶと思います。

この三之門は元和元年(1615年)初代小諸藩主・仙石秀久によって小諸城が近世城郭へと大改修された時に設けられましたが、寛保2年(1742年)8月1日に千曲川流域で起きた未曾有の大水害で流失してしまったため、明和3年(1766年)に小諸藩牧野氏3代藩主・ 牧野康満によって再建されました。
ちなみに、徳川宗家16代当主・徳川家達の筆による「懐古園」の扁額が掲げられている三之門は国指定重要文化財ですが、所有者は懐古神社となっています。


「小諸城 天守台石垣」(2011.07.11旦那撮影)
小諸城には仙石秀久が大改修した時に桐紋の金箔押瓦が用いられた三重天守が建てられましたが、寛永3年(1626年)に落雷によって焼失してしまいました。


「大河ドラマ 風林火山とコラボした城址案内板」 (2011.07.11旦那撮影)
小諸城の縄張りは武田信玄の軍師・山本勘助によるものだといわれています。
2011年7月に行った時には勘助ゆかりの城跡という事で、2007年にNHKで放送された内野聖陽さん主演の大河ドラマ「風林火山」で、信玄の実弟・信繁役を演じた嘉島典俊さんの書による小諸城の案内板が設置されていました。
2022.08.19 23:02 | comment(0)
山家神社・真田神社
山家神社と真田神社の通常御朱印を直書きで頂きました。
書置きの通常御朱印は直書きより初穂料がお安くなっていました。
2022.06.09参拝

「山家神社」
長野県上田市真田町長4473


社殿へ向かう参道の階段の両脇には大木が立っていたみたいです。
今は朽ちて途中で伐採されてしまっていましたが、隣に生えている木を見ると、その大きさに圧倒されます。


「山家神社 社殿」
社殿前には六文銭があしらわれた矢盾が設置されていて、とてもいい雰囲気を醸し出してくれています。
山家神社の詳しい創建時期はわかっていませんが、景行天皇の時代に、日本古代史の英雄・日本武尊を合祀したと伝わっていますので、歴史は相当古い事は確かなようです。
寺社仏閣巡りをしているとたびたび耳にする「景行天皇」ですが、享年は106歳とも137歳とも伝わっていて、すごい長寿でびっくりです。
ちなみに、景行天皇のお父君「垂仁天皇」の享年は140歳デス( ゚Д゚)

養老2年(718年)には四阿山絶頂に奥宮を奉遷したそうですが、前回投稿した皆神神社の起源となった「出速雄神社」が奉祀されたのもこの年でした。
戦国期には四阿山頂上よりの水分神のご神徳から「白山大権現」と称えられ、上田城鬼門除の神として真田氏からも崇敬されていて、資料には真田幸隆と嫡男・信綱が真田氏の氏神だった四阿山白山大権現奥宮(山家神社奥宮)に連名で奉納していた記録が残っています。
慶長5年(1600年)9月の第二次上田合戦で戦火によって焼失してしまった山家神社を、上田藩主となった真田信之が再建しました。

永禄9年(1566年)真田信之は武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)の長男として生まれました。
武田勝頼の元へ人質として預けられ、天正7年(1579年)に武田勝頼の嫡男・信勝の元服と同時に元服を許され、武田家の通字だった「信」の字を与えられ信幸と名乗りました。
慶長5年(1600年)に徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将に石田三成・大谷吉継・宇喜多秀家らが上方で挙兵した西軍が争った関ケ原の戦いの際は、父・昌幸、弟・信繁と袂を別ち、義父・本多忠勝の所属する東軍へ与して、戦後、上田・沼田領を与えられ9万石を越える大名に取り立てられました。
大坂の陣では、信之は病気のため参陣できず、代理として長男・信吉と次男・信政が出陣しましたが、豊臣方との戦いに敗れて敗走してしまったそうです。
元和2年(1616年)信之は沼田から上田に移り、沼田領は長男・信吉に引き継がれる事になりました。
元和8年(1622年)10月、信之は信濃松代藩に加増移封され13万石の大名となりましたが、上田から移される事が不満だった信之は上田藩関係の書類を燃やしてしまったため、信之の後に上田藩を引き継いだ仙谷忠政は、領内の把握に大変苦労したといいます。
明暦元年(1656年)信之は長男・信吉、信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男・信政に家督を譲って隠居しました。
万治元年(1658年)2月、家督を譲った信政も死去したため、真田家では真田宗家の家督を巡る争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信利が、次男の血統(信政の六男)である信房(のちの幸道)の家督相続に異議を唱えて幕府に訴え出たため、幕府や縁戚の大名家を巻き込んだ大騒動となりました。
最終的に次男の血統の信房が真田宗家の家督を継いで第3代松代藩主として認められましたが、2歳という幼少だったため、隠居していた信之が復帰して藩政を執る事になりました。
この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となりました。
同年10月17日に、当時としては異例の93歳という高齢で死去しました。
信之辞世の句は「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり」です。
信之が守り抜いた真田家は幕末まで存続し、現在も子孫の方が脈々と真田の血を受け継いでおられます。
ちなみに、信之の子孫の家系では「信」か「幸」の字をつける決まりがあるそうで、毎回名前を付けるのに苦労なさっているそうです。
現在の真田家当主は、14代目の真田幸俊氏です。

「真田神社」
山家神社の鳥居をくぐって参道を進むと、左側に真田神社が鎮座しています。
こちらに鎮座する真田神社は真田氏より唯一公認を受けた真田神社です。

真田幸綱(幸隆)、真田昌幸、真田信之、真田信繁(幸村)の真田氏三代・四将をお祀りする真田神社。
こちらは赤い鳥居が青空に映えて、とても素敵な景観です。


真田昌幸は幸綱の三男だったため家督の継承権がなく、永禄年間に跡継ぎのいなかった武田信玄の母系・大井氏の支族である武藤氏の養子となると、武藤喜兵衛と名乗って武田家の足軽大将として活躍していました。
天正3年(1575年)5月21日、主君・武田勝頼が織田・徳川連合軍と争った長篠の戦いで、武田家の侍大将だった長兄の真田家当主・真田信綱と次兄・真田昌輝が討死したため、昌幸は兄・信綱の嫡女・清音院を嫡男・信幸の正室に迎え入れ、真田氏家督継承者としての正当性を確保すると、主家・武田家に信幸を人質に送り、真田姓に復姓して家督を相続しました。
この真田家の家督相続は、武田家重臣で信濃海津城主だった高坂昌信の支援を受けた昌幸が強引に推し進めた可能性があり、昌幸が受け継ぐべき信綱以前の真田家家伝文書は、次兄・昌輝の子孫に受け継がれています。

天正10年(1582年)2月、織田信長・徳川家康の連合軍と、相模の北条氏政の武田征伐が始まると、劣勢となった主君・武田勝頼を自領の上野岩櫃城へ迎え入れ武田家の立て直しを図る計画を勝頼に進言し、昌幸は岩櫃城の防衛整備と勝頼の居館を建設するため、急ぎ上野国岩櫃城に戻りました。


岩櫃城 本丸跡(2019.05.18旦那撮影)群馬県吾妻郡東吾妻町原町
岩櫃城は堅固な山城で、昌幸はここを拠点にした主家・武田家の立て直しを画策していました。


潜龍院跡(2019.05.18旦那撮影)群馬県吾妻郡東吾妻町郷原古谷
昌幸により勝頼の居館として急造されましたが、勝頼が岩櫃へ来る事はありませんでした。

天正10年(1582年)3月、勝頼は側近・長坂光堅の進言により、真田氏の岩櫃城ではなく、譜代家老衆の郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城に移る事に決定すると、完成したばかりの新府城を織田方に使われないようにするために火を放ち、1万の軍勢で岩殿城に向かいました。
しかし勝頼は、岩殿城主の小山田信茂が織田方へ寝返ったため小山田領内に入れず、退路には織田方の軍勢が迫ったために天目山へ向かうと嫡男・信勝とともに自害し武田家は滅亡しました。
この天目山は応永24年(1417年)、室町幕府に追われた武田氏第13代当主・武田信満が自害して、武田家が1度断絶しているという場所で、武田家は同じ場所で2度目の滅亡の憂き目を見るという、なんとも不思議な運命の場所となってしまいました。
天目山へ向かう勝頼の軍勢では逃亡が相次ぎ、残ったのはわずか1000騎ばかりとなっていたそうです。


岩殿城址(2009.05.23旦那撮影)山梨県大月市賑岡町強瀬
古くから天台系聖護院末の修験道の場だった岩殿山は、武蔵・相模の備えとして築かれた堅固な山城で、鏡岩といわれる岩壁の上に本丸があります。
勝頼は小山田氏の裏切りによって、この城へは入城する事は叶いませんでした。


新府城 本丸跡(2009.05.23旦那撮影)山梨県韮崎市中田町中條
新府城の縄張りは勝頼の命令を受けた真田昌幸によって手掛けられ築城されましたが、戦闘には一度も使用される事はなく武田家によって燃やされてしまいました。


新府城本丸跡に建てられた武田勝頼公を慰霊する祠(2009.05.23旦那撮影)
家臣にも身内にも裏切られ、天目山で自刃という最期を遂げた武田勝頼さん、かわいそうですね。
実は父・武田信玄よりも領国を拡げたんだそうです。

武田家が滅亡すると、甲府に残っていた信幸は、同じく人質だった実母・山手殿と信濃上田の松尾城(真田氏本城)へと逃れました。
信長より「関東御取次役」に任じられた織田家重臣の滝川一益が上野国と信濃小県郡・佐久郡を与えられ上野国厩橋城に入城し、織田家に従う国人衆には所領の安堵を約束したため、甲斐・信濃・上野の諸将は人質を差し出して織田家に従属、昌幸も次男・信繁(幸村)を一益に人質として送り、滝川一益の与力武将となって織田家に従属する事となりました。
昌幸は上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵されましたが、一益の要請により上野沼田城を明け渡し、沼田城には一益の家臣・滝川益重が新たな城主として入りました。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長が横死し、甲斐・信濃諏訪郡の支配を担当していた織田家重臣・河尻秀隆が武田旧臣に殺害されると、甲斐・信濃に派遣されていた森長可、毛利秀頼、道家正栄などの織田家臣が次々と織田領へ逃亡、空白地となった武田遺領を巡って天正壬午の乱が発生しました。
昌幸は、武田旧臣を調略し家臣に取り込むと、信濃小県郡・上野国吾妻郡の諸将に知行宛行状を発給して地盤を固め、信濃佐久郡にも勢力を伸ばし、6月10日には真田郷の四阿山白山寺(山家神社)の宝蔵院に寺領を寄進しました。
武田家の与力だった吾妻衆の地侍・恩田伊賀に30貫文の所領を与えていますが、のちに藩政改革で活躍した家老・恩田民親を排出する一族なのかも知れません。
6月19日、滝川一益が相模の北条氏に神流川の戦いで破れると、真田昌幸はこれを好機として、上野国を放棄して本領伊勢へと逃れる滝川一益を尻目に、6月21日には叔父・矢沢頼綱の軍勢を上野沼田城に派遣し密かに奪還、その後も昌幸は裏切った素振りを見せずに一益の逃亡を支援して諏訪まで送り届けるというしたたかさを見せています。
6月24日、越後の上杉景勝も北信に進出し信濃長沼城を手中に収め家臣の島津忠直を城主とすると、昌幸は景勝に臣従の意を伝えましたが、相模の北条氏直からの調略に応じ、7月9日には北条方へ寝返りました。
北条に従属した真田氏は、上杉景勝の所領となっていた信濃海津城を牽制するため、信幸が総大将としてたびたび川中島へ出兵しました。
9月25日、徳川家康の家臣となった武田旧臣・依田信蕃、実弟・真田信尹の調略により徳川方に内応した昌幸は、上野国吾妻郡の重要拠点だった北条方の手子丸城攻略を嫡男・信幸に命じると、信幸は、わずか8百の手勢で、北条方の富永主膳が5千の兵で守る手子丸城をたった一日で落城させるという武功を挙げました。
10月初旬、真田昌幸が離反した事を知った北条氏直は、藤田氏邦(北条氏邦)に沼田城を攻撃させましたが、真田勢に撃退され落城させる事はできませんでした。
昌幸は信幸を岩櫃城に置いて上野方面の守備を固め北条勢と対峙していましたが、徳川家康が真田領だった上野沼田領を北条氏に譲渡する条件で徳川・北条の和睦が成立してしまいます。
昌幸は、自身に断りもなく沼田領の譲渡を決めた事や沼田領の代替地が不明瞭だった事から、徳川家康に対して疑心暗鬼となり独立を模索し始めていたと考えられます。
昌幸は同族の滋野一族・根津昌綱を懐柔し臣下に取り込み、千曲川の南岸を治める国人衆・室賀正武を戦で破り麾下に置いて真田家の足場を固めると、天正11年(1583年)千曲川領域を抑える上杉勢への抑えの城として上田城の築城に着手しました。
天正12年(1584年)3月、天下取りを狙う織田家重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、織田信長の次男・織田信雄、徳川家康の連合軍が争った小牧・長久手の戦いで、家康の注意が上野・信濃から離れた隙に、昌幸は自身を暗殺しようと画策した室賀正武を誅殺し、上野国沼田・吾妻の諸将には知行宛行状を発給して臣下に組み込み、信濃小県・上野国沼田・吾妻の所領を掌握する事に成功しました。
天正13年(1585年)4月、北条氏から和議の条件である沼田領の明け渡しを求められた家康は、昌幸に圧力をかけるため甲斐に兵を進軍させて沼田領の明け渡しを迫りましたが、沼田領の代替地を与えられていない上に、沼田領は徳川家から与えられた領地ではないとして、断固として明け渡しに応じませんでした。
この頃、徳川家との決別を決意した昌幸は、築城中の上田城大手口を、対徳川を想定し東側に変更しました。
7月15日、昌幸は次男・信繁(幸村)を人質として越後に送ると、徳川家から離反し、徳川・北条と敵対していた上杉景勝に従属しました。
この事が原因で第一次上田合戦につながりますが、詳しくは眞田神社第一次上田合戦で書いてますので、よかったら読んでみてみて下さい。


沼田城 本丸跡に復元された鐘楼(2010.06.13旦那撮影)群馬県沼田市西倉内町
沼田領を巡る争いは各大名家の運命を大きく左右する発端とりました。

天正13年(1585年)冬、昌幸は天下への道が盤石となりつつあった羽柴秀吉に従属する事を決め、次男・信繁を秀吉と誼を通じていた上杉景勝の元から羽柴家の人質として大坂に出仕させると、秀吉も真田家を独立大名の身分として羽柴臣下に迎え入れました。
天正14年(1586年)7月、徳川家康が真田討伐の兵を挙げ甲府に出陣しましたが、秀吉の調停によって真田攻めを断念、代わりに真田昌幸は秀吉の命令で徳川の与力大名となりました。
第一次上田合戦で昌幸の才能を高く評価した家康は真田家の懐柔策に乗り出し、昌幸の嫡男・信幸に、徳川四天王の一人・本多忠勝の娘・小松姫を家康の養女としたのち、信幸の正室として輿入れさました。(それまで正室だった清音院殿は側室となりました)
形式上、徳川家の一門武将となった信幸は駿府城へ出仕するなど、徳川家との誼を深めていく事になります。

豊臣政権下では次男・信繁が秀吉の馬廻衆に抜擢され秀吉の信任の厚い大谷吉継の娘を正室に迎えるなどして、豊臣家の信頼を得て豊臣姓を下賜されるほどになっていました。
文禄3年(1594年)11月2日には兄・信幸が従五位下伊豆守、信繁は従五位下左衛門佐に叙任されました。
信繁が大坂で立身出世を果たせた背景には、大きな後ろ盾となった岳父・大谷吉継とその母・東殿の意向が働いたためだったといわれています。
信繁は豊臣政権では独立した大名家とみなされて伏見城の普請役を任され、大坂・伏見に屋敷を与えられるなど、豊臣政権下の真田家は、本当に順風満帆でした。

慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉が死去した事により、豊臣政権内で五大老筆頭・徳川家康と大老・前田利家や五奉行の一人で秀吉の側近中の側近だった石田三成との間に、少しずつ対立が生まれていきました。
慶長4年(1599年)3月3日、三成の後ろ盾となっていた大老・前田利家が病没してしまうと、三成に反感を抱いていた丹後宮津城主・細川忠興、豊前中津城主・黒田長政、肥後熊本城主・加藤清正、尾張清洲城主・福島正則、三河吉田城主・池田輝政、甲斐府中城主・浅野幸長、伊予松山城主・加藤嘉明の7名が三成を殺害しようと行動を起こしました。
家康は仲裁に乗り出し、三成の奉行辞任と佐和山城での蟄居を条件に和睦が成立しましたが、実はこの事件の直前、三成襲撃の中心人物だった細川忠興は、仲裁役の家康から豊後国内に6万石を与えられていて、襲撃事件は三成を奉行の座から追い出すための家康の計略だった可能性があります。
慶長5年(1600年)6月、家康の豊臣政権内での影響力は増し、大坂出仕命令を拒否する陸奥国会津の大老・上杉景勝に豊臣家への謀反の兆しがあるとして会津討伐を決定すると、後陽成天皇より晒布を100反、豊臣秀頼より黄金2万両と米2万石が下賜されました。
そして、天下分け目の決戦となる関ケ原の戦いにつながっていきますが、詳しくは眞田神社の第二次上田合戦を参照して下さい。

慶長5年(1600年)9月15日、関ケ原で勝利した東軍総大将・徳川家康は、事実上、天下を手中に収めました。
徳川家を離反して毛利輝元、大谷吉継、石田三成らの西軍に与した上田城の真田昌幸・信繁父子は、一度は死罪の沙汰となりましたが、昌幸の嫡男・信幸の義父で徳川家の重臣・本多忠勝の必死の働きかけもあり、死罪を免れ紀伊国九度山に配流となりました。
信幸も、徳川家に真田昌幸との決別の意を表すために、昌幸から取った「幸」の字を「之」と変え「信之」と名乗るようになりました。
12月13日、徳川家に上田城を明け渡した真田昌幸は、次男・信繁と妻子、家臣16名を引き連れて九度山に入りました。
九度山では屋敷が造営されるなど流人としては厚遇を受けていましたが、生活費は嫡男・信之、親交の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助を受けて暮らしていたようです。
上田城は家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却され、上田領は真田信之に与えられました。
信之は沼田27,000石、上田38,000石、加増30,000石の95,000石を領する大名となり、上野国沼田城を本城として、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて上田領の統治を行ったそうです。
慶長16年(1611年)6月4日、秀吉に「表裏比興の者」と評され、家康に畏れられた武将・真田昌幸は病に倒れ、流刑先の九度山で波乱に満ちた生涯を終えました。


大坂冬の陣
慶長19年(1614年)方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し、豊臣方では戦に備えて浪人を集め始めました。
九度山に流罪となっていた信繁の元にも、秀頼から大坂城に入城するよう誘いがあり、支度金として黄金200枚、銀30貫が贈られました。
信繁は上田にいる父・昌幸の旧臣に参陣を呼びかけ、徳川の監視の目を潜り抜け九度山を脱出し、嫡子・幸昌と大坂城に入城しました。
大坂での軍議で、浪人衆の信繁は、畿内を制圧して関東と西国の諸大名を分断させたのち軍勢を近江・瀬田川まで進めて徳川軍を迎撃し、足止めしている間に諸大名を味方に引き入れる調略を試みる、調略が失敗して初めて大坂城で籠城戦に持ち込むという二段構えの作戦を提唱しましたが、巨大な大坂城に籠城して徳川軍を疲弊させ、有利な条件で講和を引き出そうという方針の豊臣家宿老・大野治長を中心とする籠城派の意見が採択されたため、信繁は自身の軍勢の軍装を赤で統一すると、大坂城外の三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる出城を築き徳川勢を迎え撃つ体制を整えました。

10月11日、徳川家康が軍勢を率いて駿府を出発すると、徳川幕府に従う各大名家も続々と大坂に進軍を開始しました。
幕府軍の総勢は20万、迎え撃つ豊臣方は10万といわれていて、籠城策をとった豊臣方は大坂城の周りに砦を築いて守りを固めました。
11月19日、徳川方の蜂須賀至鎮、浅野長晟、池田忠雄などが率いる3千の軍勢が、豊臣方の明石全登が8百の兵で守備する木津川口の砦に攻撃を開始しました。
この時、明石全登は大坂城内で行われた軍議に参加するため不在にしていた事もあり、水陸両面から急襲された砦はあっけなく陥落してしまいました。
その後も徳川方の攻撃によって複数の砦を落とされた豊臣方は、残る砦を放棄して大坂城内に兵を戻しました。
味方が大坂城内に逃げ込む中、信繁は5千の兵を率いて真田丸と真田丸前方の篠山という丘に兵を配置して、真田丸正面に布陣した徳川方の前田利常軍1万2千と対峙していました。
利常は家康の命令で塹壕を掘り進めていましたが、真田隊は篠山から火縄銃で狙撃を加え、作業を妨害しました。
12月4日、篠山からの攻撃に業を煮やした利常は、本多政重、山崎長徳らに夜襲を掛けさせましたが、すでに真田勢は真田丸に戻っていて、翌朝、もぬけの殻となっていた篠山に登った前田勢を高笑いするなどして真田勢が挑発すると、怒った篠山の前田勢は丘を駆け降りると真田丸に攻撃を開始しました。
真田勢は前田勢を城壁に引き付けると、火縄銃の一斉射撃で次々と討取りました。
利常は命令なく真田丸に攻撃を仕掛けた兵を撤収させようとしましたが、前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢も功を焦り、つられる形で大坂城の八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けました。
八丁目口・谷町口には、豊臣方の木村重成、後藤基次、長宗我部盛親が守備兵1万2千を率いて布陣していて、徳川方の井伊直孝が率いる4千、松平忠直の率いる1万の浮足立った軍勢を、ことごとく討取っていきました。
徳川方の損害は1万人にも上り、この惨状を知った家康は全軍の撤退を命じました。
家康は豊臣方へ降伏するよう勧告しましたが、豊臣方は受け入れず、和議の交渉も暗礁に乗り上げたため、12月16日から徳川方の大砲が大坂城に撃ち込まれました。
昼夜問わず連続して撃ち込まれる大砲の轟音に豊臣勢は心理的にも疲弊していましたが、そんな中、本丸の天守に砲弾が直撃すると、秀頼の母・淀殿の侍女8名が命を落としました。
この惨状を目の当たりにした淀殿は怖気づいたのか、徳川との和議を急ぐよう秀頼側近の重臣に命令したため、18日から徳川方・京極忠高の陣中で、家康側近・本多正純、阿茶局と、豊臣方の淀殿の妹・常高院との間で和睦交渉が行われ、20日には講和の条件が合意し誓書が交わされ和睦が成立しました。
講和条件によって大坂城は、二の丸・三の丸が破却され、惣構の堀は埋め立てられて、内堀と本丸のみを残す裸城となってしまいました。
信繁の築いた真田丸も破却され、講和後の慶長20年(1615年)2月、家康は信繁の叔父・真田信尹を信繁の元へ派遣し、信州に10万石の所領を与える条件を提示して徳川方に寝返るよう調略を試みましたが、信繁は応じなかったため、今度は信濃一国40万石を与えると条件を出すと信繁は「信濃一国などで裏切るような者だと思ったか」と信尹を恫喝し追い返したそうです。


大坂夏の陣
1615年(慶長20年)3月、大坂城の浪人衆が乱暴狼藉を働いている事、大坂城の堀の再建を進めている事、京への放火の噂など、不穏な風聞があるとして、徳川幕府は豊臣秀頼が国替えに応じるか、浪人衆を解雇するよう命じましたが、豊臣方がいずれも拒否したため、再び大坂城攻めを決定しました。
3月6日、幕府から諸大名に鳥羽・伏見へ参陣するよう号令が出され、各地から参集した15万5千の軍勢が揃いました。
豊臣方も決戦を覚悟し、裸城では籠城策が取れないため野戦に撃って出る事となり、4月26日、幕府方の筒井定慶が守る大和郡山城を大野治房の部隊が落城させると、4月28日には徳川方の兵站基地となっていた堺を焼き討ちにしました。
翌日、大野勢は紀州攻めを仕掛けましたが、先鋒を任せていた塙直之、淡輪重政らが単独で徳川方の浅野長晟勢と戦い討死してしまいます。
5月6日、大和路から大坂城に進軍する幕府軍3万5千を、後藤基次隊が2千8百の兵で迎撃しましたが、伊達政宗、松平忠明からの攻撃を受け討死すると、遅れて到着した明石全登、薄田兼相ら3千6百の兵も幕府軍の攻撃を受け、兼相が討取られてしまいました。
さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら1万2千が到着すると、真田隊は伊達隊に猛攻を加え、伊達隊先鋒・片倉重長隊を後退させました。
信繁は「濃霧のために着陣が遅れ、後藤基次殿を死なせてしまった事を恥ずかしく思う」と嘆き、この場での討死を覚悟しましたが、毛利勝永に「秀頼公の馬前で華々しく死のう」と諫められると撤退戦の殿軍を引き受けて、伊達政宗軍の追撃隊を撃破しつつ、豊臣軍の撤退を成功させました。
この撤退戦で信繁は「関東勢百万と候え、男は一人もなく候」と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤退したと語り継がれています。
信繁は兵士の士気を高めるために総大将・豊臣秀頼の出陣を願い出ましたが、秀頼の母・淀殿や豊臣家譜代家臣に拒まれて、秀頼の出陣には至りませんでした。
翌日、豊臣方は「射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させ、迂回させた別動隊の明石全登隊に本陣を急襲させて家康を討取る」という策を立て、天王寺口に真田信繁・毛利勝永など1万4千、岡山口に大野治房ら4千6百、別働隊として明石全登3百、後詰に大野治長と馬廻衆や近習衆などの中から選抜された組頭七手組の部隊1万5千を布陣させ迎撃態勢を整えました。
この時、秀頼は出陣しませんでしたが、兵の士気を高めるために、秀頼の馬印が大野治長の陣に掲げられました。
この馬印を見た豊臣方の兵は、総大将・豊臣秀頼が出馬したと思い込み、士気はかなり上がっていたそうです。

幕府方は、大和路勢および浅野長晟4万を茶臼山方面、その前方に松平忠直1万5千が布陣し、天王寺口には本多忠朝ら1万6千、その後方に徳川家康1万5千が本陣を構えました。
岡山口には前田利常ら2万7千、その後方に近臣を従えた徳川秀忠2万3千が本陣を置きました。
徳川先鋒・本多忠朝隊が毛利隊と射撃戦を展開しましたが、立案した策に支障があるため、信繁は毛利隊に射撃中止の使者を遣わしましたが、毛利隊大将・毛利勝永の中止命令もむなしく戦闘は激化し、立てていた策も断念する事になってしまいました。
信繁はこの時、軍目付の伊木遠雄に武運拙き事を嘆くと、自らの死を覚悟したそうです。
信繁は家康の本陣目掛けて決死の突撃を開始すると、越前松平家・松平忠直隊1万5千の大軍を突破し、攻めかかる徳川の部隊を撃破しながら家康本陣に向かって突撃を敢行しました。
信繁の勢いに後押しされた毛利・明石・大野治房隊などの豊臣各部隊も奮戦し、徳川勢は総崩れも間近となりました。
赤い軍装で揃えられた真田隊は、一騎当千の精鋭と謳われる徳川家臣団を圧倒し、家康の本陣に二度に亘って突入すると、本陣に掲げられている家康の馬印を倒しました。
家康が馬印を倒されたのは武田信玄と争った三方ヶ原の戦い以来の事で、真田隊の鬼気迫る勢いに敗戦を覚悟した家康は、二度も自害を考えましたが、家臣に止められ本陣から命からがら逃れたそうです。
大野治長は今こそ秀頼の出馬の時と考え、自ら言上しようと大坂城に引き返しましたが、兵の士気を上げるために陣中に掲げていた秀頼の馬印を掲げたまま戻ったため、本隊が退却を開始したと誤解した豊臣勢には動揺が広がり士気も低下し、さらに城内から火の手が上がった事で徳川勢に攻め込まれたと錯覚した前線で激戦を繰り広げていた豊臣勢の部隊は、一気に動きが鈍くなり勢いが完全に止まってしまいました。
家康はこの勝機を見逃す事はなく全軍に総攻撃を命令すると、幕府軍は一斉に進撃を再開し、浮足立った豊臣勢は崩れ始め、一気に形勢が逆転しました。
真田隊は越前・松平隊と交戦を続けていましたが、岡山口から家康の危機を聞き駆けつけた井伊直孝の軍勢に横槍を入れられて突き崩されてしまいました。
それまで押されていた越前・松平隊も反撃に転じると、真田隊は次々と討ち取られて勢いを失い、幾度となく決死の突撃を敢行した信繁も撤退を余儀なくされました。
真田隊の撤退によって毛利隊も戦闘続行をあきらめると、豊臣勢は総崩れとなって大坂城へ退却を開始し豊臣方の敗北が決定的となりました。
戦場から離脱した信繁は、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内の木にもたれ、傷つき疲れた身体を休ませていましたが、越前松平家鉄砲組頭・西尾宗次に発見されると「この首を手柄にされよ」と、最後の言葉を残して討ち取られてしまいました。

野戦での豊臣方の敗戦を受け大坂城に戻っていた秀頼側近の大野治長は、家臣・米倉権右衛門を使者として徳川幕府2代将軍・秀忠の元へと遣わし、秀忠の娘で秀頼の正室だった千姫を脱出させた上で自身以下の家臣が切腹する代わりに、秀頼・淀殿両名の助命を願い出ました。
この嘆願を聞いた家康は秀忠に判断を任せましたが、翌日、秀忠は秀頼らに切腹を命じると、秀頼一行が籠もる大坂城内の山里郭にある蔵を包囲した井伊直孝勢が、午の刻(午前十二時頃)に鉄砲を放つ事で秀忠の意思を伝えました。
これにより秀頼ら32人は自害し、豊臣家は滅亡しました。

大坂夏の陣での信繁の勇猛果敢な戦ぶりは、敵方の諸大名からも「真田日本一の兵」と称賛され、伝説的英雄として後世までその名を轟かせています。
しかし、大野治長の機転の利かない事ったら(;^ω^)


「真田神社 社殿」
明治19年(1886年)真田家十代当主・真田幸民公の許可を得て、真田氏遺臣・北澤金平氏や地域住民を中心とした有志によって、、真田一族発祥の地である真田の里に、真田氏三代・四将をお祀りする当社を創建しました。
当初は山家神社から南に100mほど離れた場所に鎮座していましたが、創建翌年に発生した真田の大火で全焼してしまったため再建に努めましたが、財政や物資が困窮する事態となったため大正8年(1919年)、真田氏崇敬の山家神社境内の白山寺跡に遷されました。


直書きで頂いた山家神社と真田神社の御朱印。

真田相伝六神社巡りも開催されています。
下記神社の写真を撮って山家神社で見せると「真田相伝六神社巡り御朱印」を頂く事が出来ます。
※詳しくはこちらをご覧ください。
・山家神社
・真田神社
・皇大神社
上田市真田町本原字御屋敷2964
(真田氏館跡)
・諏訪神社
上田市真田町長十林寺5008
(真田氏本城跡)
・安智羅神社
上田市真田町長3057
(松尾古城跡)
・北赤井神社
上田市真田町本原赤井3912
(天白城跡)


「真田神社社殿の鬼瓦」
明治20年(1887年)真田の郷で起こった大火災で焼失した社殿にあげられていた鬼瓦だそうです。
焼け残った鬼瓦のお陰で、当時の社殿が相当大きなものだった事がわかります。
2022.08.15 22:34 | comment(0)
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