坂城神社
北信の猛将・村上義清も崇敬した「坂城神社」で御朱印を頂きました。
2022.06.08参拝

景行天皇40年、第12代景行天皇の皇子・日本武尊が東国征伐の帰途、五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした事が創建の由来と伝わります。
白鳳2年(673年)治国平天下を祈願して社殿が奉建されたそうです。
創建については神社に伝わる景行天皇40年と、社殿が奉建された白鳳2年(673年)で意見が分かれているようですが、管理人は日本武尊が五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした時が創建と捉えています。
日本古代史の英雄が創建したという方がとてもワクワクします!(^^)!

「坂城神社」
長野県埴科郡坂城町坂城1205


「境内の鳥居」
参道や境内は無人とは思えないくらい清掃がされていました。
地域の方々に大切に守られている地域に根差した神社だと思いました。


「坂城神社拝殿」
千鳥破風などはなくシンプルな造りとなっています。

神社の背後には信濃村上氏の居城・葛尾城があり、村上氏代々の葛尾城主から「坂城大宮」と称され崇敬されていたそうです。
村上氏の居館は、境内に隣接していた場所に構えられていたそうで、天正10年(1582年)上杉家臣となっていた村上義清の子・村上国清(山浦景国)が、居館跡地の一角に満泉寺を建立しました。
天文22年(1553年)甲斐武田氏に居城・葛尾城を落とされた村上氏が越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り落ち延びると、坂城神社も衰退してしまったそうです。
永禄11年(1568年)信濃攻略が一段落した武田信玄によって社領が寄進され、坂城大宮は再興されました。
天正7年(1579年)には武田勝頼からも社領を安堵されたそうです。

信濃村上氏は村上義清が当主の頃、北信濃では最大の勢力でした。
信濃攻略を目論む甲斐の武田晴信(のちの信玄)が信濃に兵を進めると村上氏と激しい戦となりました。
天文17年(1548年)2月14日、上田原の戦いで義清は上田平に展開、緒戦は優勢だった武田軍の隙を突き先鋒を崩すと、混乱した武田勢は陣を維持できなくなり、ついに義清軍は武田晴信の本陣に猛攻を仕掛けました。
武田本陣の守備隊も村上勢に押され後退し、晴信も手傷を負って退却、村上軍は武田軍に大勝利を収めました。
この時、武田方では武田四天王の1人で諏訪郡代を務める武田家臣団筆頭格・板垣信方と、武田24将の1人で譜代家老・甘利虎泰の超大物2人が討死していて、家督を継いで以来負け知らずだった武田晴信は、苦い敗戦となりました。
天文19年(1550年)9月、信濃国小県郡に侵攻した武田晴信軍は、村上方の支城で東信濃の要衝だった砥石城を攻めました。
砥石城に籠城していた城兵は奮戦して持ち堪え、葛尾城から村上義清の本隊も到着し、武田軍の挟撃に成功します。
戦況が不利と見た武田晴信軍は撤退を開始しましたが、1000名を超える将兵と重臣・横田高松が討取られ、またしても村上義清軍に大敗を喫しました。
この敗戦は「砥石崩れ」と言われ、歴史好きの方々には有名な話なんだそうです。


書置きで拝受した御朱印、参拝日は自身で書入れるようになっています。
御朱印やお札などは、お賽銭箱の裏に箱がありその中に入っているものを自分で取って頂きます。
初穂料はお賽銭箱に入れて下さい。

2022.07.21 17:55 | comment(0)
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