【眞田神社】真田昌幸の知略が光る上田城跡と、季節限定御朱印を巡る旅
家康が恐れた武将「表裏比興の者・真田昌幸」が築いた上田城址に鎮座する「眞田神社」で、直書きの季節限定見開き「夏越祓御朱印」「月替わり御朱印」と、書置きの枚数限定「疫病終息祈願御朱印」を頂きました。
2022.06.09参拝



「眞田神社」
所在地:長野県上田市二の丸1-12
駐車場:あり(無料)※一部有料化の動きあり
アクセス:上田駅から徒歩約15分

戦国時代、徳川家康を二度も退けた名城として知られる上田城。
その築城主・真田昌幸は、豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評されたほどの智将でした。

そんな歴史の舞台となった上田城跡を訪れ、今回は眞田神社の御朱印を目的にゆっくりと巡ってきました。
これまで城跡の見学が中心だった訪問とは違い、境内の空気や歴史の重なりを感じながらの参拝は、またひと味違う魅力があります。

季節限定の御朱印や月替わりの御朱印、さらには枚数限定の特別な御朱印まで拝受することができ、歴史好き・御朱印好きの私には、たまらないひとときとなりました。

戦国の知略が息づく地でいただく御朱印には、どこか特別な重みが感じられます。

ご利益: 「落ちない・負けない」ことから、受験生や試合前の参拝者が多く訪れます。
勝負運、知恵の神様、開運、学業成就などのご利益があるとされています。


眞田神社には3度目となる訪問です。
1,2回目は旦那の上田城の見学が目的でしたが、今回初めて眞田神社の参詣と御朱印拝受を目的として伺いました。



■眞田神社の歴史
眞田神社は明治12年(1879年)旧上田藩士や旧領内有志によって藤井松平氏初代の忠山公、二代・忠昭公、そして藤井松平氏の初代上田藩主・三代・忠周公のご霊璽をお祀りする神社として創建されました。

創建当初は「松平神社」と称していましたが、、昭和28年(1953年)に上田城の築城者である真田氏と、真田氏のあとに上田藩主となった仙谷氏、そしてそののち幕末まで藩主を務めた藤井松平氏の歴代城主が合祀され「上田神社」と改称しました。

しかし、市内には同名他社が存在し紛らわしいとの事から、昭和38年(1963年)に上田城初代城主で築城者でもある真田昌幸公の名を冠して「眞田神社」と改称し現在に至ります。


眞田神社拝殿
拝殿前には六文銭がデザインされた写真撮影用のパネルが設置されていました。
お賽銭箱の上の赤い六文銭に手をかざすと、鈴の音が聞こえてきます。


境内には「青年 真田幸村公の像」が建てられていました。
実は、真田幸村は上田城で過ごした期間はとっても短かったんです。

第一次上田合戦の際には、越後・上杉景勝の元へ人質として赴ていて参陣していませんでしたし、その後、豊臣家臣となった真田昌幸は、幸村を人質として大阪へ送っていたので、幸村の上田入城は慶長5年(1600年)、徳川家康の会津・上杉氏討伐の時、徳川方から離反して上田城に入ったのが初めてだったとも考えられます。

更に、歴史好きの方には周知の事実ですが、真田幸村が生前、幸村と名乗った事はなく、江戸時代に書かれた軍記物に初めて幸村と表記され、幸の字が真田氏のルーツであった海野氏の通字だった事と、村の字が、なにかと因縁のあった徳川家に伝わる妖刀伝説の「村正」を連想させ、庶民の間で広く定着していったそうです。

幸村という名前が幅広く定着してしまったため、真田氏の正式な記録にまで幸村が使われるようになったんだそうですよ。

幸村の本名は真田信繁で、昌幸は、仕えていた武田信玄の実弟・信繁のように、兄・信幸を裏切る事なく支えるよう願って付けた名前なのかも知れませんね。


季節限定見開き「夏越祓御朱印」
直書きで初穂料は500円と、とっても良心的です。
月替わりの御朱印も直書きで初穂料300円なのに、めちゃめちゃクオリティーが高くて、遠方の方は郵送で拝受されても絶対に満足できると思います。


二ノ丸跡の上田城跡公園にあった真田幸村公の山車、お祭りで曳かれるものなのでしょうか?


「上田城 南櫓と東虎口櫓門」
二度も徳川の大軍を退けた上田城、築城者の真田昌幸は豊臣秀吉から

「表裏比興の者」

と評されるほどの智将だったそうです。

昌幸のお父さんの幸隆も知略に優れた武将で、武田信玄が大敗した砥石城を、調略によってわずか1日で攻略した凄い武将だったそうです。

💡「表裏比興の者」とは?
「老獪な策略家」「食わせ者」という意味の言葉で、小大名ながら周囲の大国を翻弄して生き抜いた、狡猾さと才覚を称えた言葉です。

+---徹底解説、上田合戦---+
徳川の大軍を2度も退けた真田昌幸、上田城を舞台に繰り広げられた上田合戦を小説仕立てで紹介します。

---第一次上田合戦---

天正10年(1582年)6月――
本能寺の変。

織田信長、横死。

天下の均衡は、一夜にして崩れ去った。

同年2月、信長によって滅ぼされた武田家。
その旧領――甲斐・信濃・上野は、統治者を失い“空白地帯”となる。

織田の支配は崩壊し、家臣たちは次々と撤退。
その隙を狙い、三人の大名が動き出す。

越後の上杉景勝。
相模の北条氏直。
そして三河の徳川家康。

武田の遺領を巡る争奪戦――
「天正壬午の乱」が幕を開けた。

その渦中にいたのが、真田昌幸である。

当初、昌幸は北条方に属していた。
だが、情勢を見極めると――

「勝つ側につく」

迷いなく、徳川家康へと寝返る。

そして、西上野を巡り、かつての主・北条と刃を交えた。

しかし、戦国は理では動かない。

天正10年(1582年)10月。
北条と徳川が突如、和議を結ぶ。

その条件は――

上野沼田は北条領。
信濃佐久は徳川領。

すなわち、真田の領地は「勝手に」切り分けられたのだった。

「ふざけるな……」

昌幸は、静かに牙を剥く。

天正11年(1583年)。
昌幸は、新たな拠点の構築に着手する。

信濃・上田。

ここに築かれるのが、後に名城と謳われる――上田城である。

そして天正13年(1585年)。

ついに決断の時が来る。

徳川家康からの命令――
「沼田を明け渡せ」

これを、昌幸は拒否した。

さらに一手。

次男・信繁(後の幸村)を人質として上杉景勝へ差し出し、
上杉に臣従。

徳川からの離反を、明確に示した。

その瞬間――

真田は、すべてを敵に回した。

築城中の上田城にも、変化が現れる。

当初、北の上杉に備えて設けられるはずだった大手門。
それは東へと変更される。

敵は――徳川。

そう、定まったのだ。

同年7月。

遠江・浜松。

家康のもとに報せが届く。

「真田昌幸、謀反」

――激怒。

ただちに討伐命令が下された。

8月。

鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らが率いる、七千の大軍。
上田盆地へ侵攻。

対する真田軍――わずか一千二百。

圧倒的兵力差。

だが、昌幸は動じない。

本城・上田城に籠る昌幸。
砥石城には嫡男・信幸。
矢沢城には一族・矢沢頼康。

さらに上杉の援軍。

三点を結ぶ、防衛線が完成する。

すべては――計算の内。

戦いは始まった。

徳川軍は猛攻を仕掛け、ついに二ノ丸へ侵入。
だが、それすら昌幸の“策”だった。

地形を知り尽くした防衛。
誘い込み、崩す。

徳川軍は、徐々に追い詰められていく。

やがて、退却。

だが――逃がさない。

昌幸、追撃開始。

さらに、砥石城より信幸隊が出撃。
側面から襲いかかる。

そして矢沢頼康も参戦。

三方からの挟撃。

徳川軍は崩壊した。

逃げる先は、神川。

だがそれは――死地。

押し込まれた兵は次々と川へ落ち、
溺死。

戦場は、一方的な殲滅戦へと変わった。

真田軍の損害――わずか40。

対して徳川軍は1300の兵を失う大敗。

これが――

第一次上田合戦。

家康は知る。

この男の危険さを。

知略、胆力、そして裏切りすら武器にする男――真田昌幸。

後年。

家康は一つの策を講じる。

重臣・本多忠勝の娘、小松姫を
昌幸の嫡男・信幸に嫁がせる。

敵ではなく――取り込むために。

それほどまでに、
真田昌幸という存在は、

“無視できぬ男”だったのである。

---第二次上田合戦---

慶長5年(1600年)6月――

天下は再び、乱れる。

豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は、
会津の上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、討伐を決断した。

「謀反の兆しあり」

その一言で、大軍が東へと動き出す。

この時、真田昌幸もまた、家康の陣にあった。

嫡男・信幸は、本多忠勝の娘婿。
次男・信繁もまた、父とともに従軍していた。

真田は、徳川の一員――
誰もがそう思っていた。

だが、その背後で動く影があった。

石田三成。

家康不在の隙を突き、挙兵。

毛利輝元を総大将に据え、
「徳川家康弾劾状」を諸大名へ送りつける。

天下を二分する戦い――
関ヶ原の火種が、ここに灯った。

下野・犬伏。

ここで、運命が分かれる。

三成の書状を受け取った昌幸は、決断する。

嫡男・信幸を東軍に残し――
次男・信繁とともに、西軍へ。

父と弟は西へ。
兄は東へ。

真田一族、分裂。

それは、生き残るための策だった。

昌幸は、ただちに上田へ引き返す。

再び、あの城が舞台となる。

家康は動く。

息子・徳川秀忠に、3万8千の大軍を与えた。

本多正信、榊原康政、大久保忠隣――
歴戦の猛将を従え、中山道制圧を命じる。

目的はただ一つ。

――西軍との決戦へ、間に合うこと。

9月2日。

秀忠軍、信濃・小諸城へ入る。

対する昌幸――兵わずか2千。

圧倒的戦力差。

だが、昌幸は動じない。

翌3日。

昌幸は、意外な手を打つ。

「城を明け渡そう」

信幸を通じ、降伏と助命を申し入れた。

初陣の秀忠は、これを受け入れる。

「恐れたか」

そう、侮った。

だが――

翌日。

昌幸の態度は、一変する。

挑発。

あからさまな裏切り。

「なめるな……!」

秀忠、激怒。

上田城攻略を決断する。

9月5日。

秀忠は、砥石城攻めを命じる。

守るは、信繁。

だが――

信繁は戦わずして撤退。

上田城へ。

すべては、誘い。

6日。

上田城、完全包囲。

秀忠は、兵糧を断つべく稲の刈り取りを命じる。

これに対し、真田勢が迎撃。

小競り合いが続く。

時間だけが、過ぎていく。

その時。

軍監・榊原康政が進言する。

「上田城は捨てよ。
 関ヶ原へ急ぐべし」

正論だった。

だが――

秀忠は、耳を貸さない。

昌幸への怒りが、判断を狂わせていた。

そして9月8日。

家康からの書状が届く。

「9日までに美濃赤坂へ着陣せよ」

その瞬間、秀忠は悟る。

――はめられた。

昌幸の狙いは、最初からこれだった。

足止め。

ただ、それだけのために。

上田城攻略、断念。

全軍、撤退。

関ヶ原へ、急行。

だが、間に合わない。

中山道は狭く大軍の移動は困難、
さらに大雨で川は氾濫。

進めど進めど、進めない。

そして――

9月15日。

関ヶ原、開戦。

だがそこに、秀忠軍の姿はなかった。

家康、激怒。

徳川家の嫡男は、天下分け目の決戦に間に合わなかった。

すべては――

真田昌幸、ただ一人に翻弄された結果だった。

戦後。

東軍の勝利。

秀忠を苦しめた昌幸と信繁は敗者となる。

紀伊・九度山へ配流。

天下に名を轟かせた策士は、表舞台から姿を消した。

一方、東軍に残った信幸は生き残る。

名を信之と改め、上田の地を与えられる。

真田は、途絶えなかった。

だが――

家康は忘れない。

二度にわたり、煮え湯を飲まされた城。

上田城。

それは、徹底的に破壊された。

もはや城ではない。

“消された”のだ。

その後、時代は移る。

真田は松代へ。

上田には仙石、そして松平。

城は再建されるも、かつての姿には戻らない。

だが、記憶は残る。

わずか二千で三万八千を翻弄した男。

天下を遅らせた城。

上田。

それは――

真田昌幸という「異才」が刻んだ、戦国最後の罠であった。


眞田神社の境内に残る「真田井戸」
この井戸、実は抜け穴となっていて、城北にある砦につながっているそうです。
籠城の時には兵糧米を運んだり、城兵の出入にも困らなかったそうです。
さすがは真田昌幸、抜け目がないですね( ´艸`)

+-眞田神社拝殿の移り変わり-+

眞田神社 拝殿(2009.5.4旦那撮影)
この頃はまだ屋根の千鳥破風などがないシンプルな拝殿でした。
御朱印集めが流行る前だったので、参拝される方は戦国ファンやお年寄りが多かったです。


眞田神社 拝殿(2011.7.1旦那撮影)
浜縁や屋根には千鳥破風が造られるなど、拝殿は綺麗に改修されていました。


眞田神社 拝殿(2022.6.9撮影)
前回訪問時から11年経って、千鳥破風や浜縁の真新しかった白木も、だいぶ黒くなって渋みが出てました。

境内には真田信繁公の銅像や伊勢神宮内宮遙拝所が設けられ、社務所前には「御朱印」の幟旗が立ち、多くの参拝者がいらっしゃいました。

お賽銭箱も大きくなり、社務所も御朱印専用窓口ができてお守りなどの種類もかなり豊富になっていました。


御朱印やお守りの郵送頒布にも対応してますのでご希望の方は、眞田神社公式HPをチェックしてみて下さい。

上田城跡は、ただの史跡ではなく、真田昌幸の知略や覚悟が今も静かに息づく場所でした。
城の構えや地形、そして伝わる戦いの記録を辿ることで、当時の緊張感や駆け引きがよりリアルに感じられます。

そして、そんな歴史の舞台でいただく御朱印は、単なる記念ではなく、その土地の物語を持ち帰るような特別な一枚。
季節ごとに変わる意匠や直書きの温かみも、大きな魅力のひとつです。

歴史が好きな方はもちろん、御朱印巡りを楽しんでいる方にもぜひ訪れてほしい場所。
次に訪れるときは、また違う季節の御朱印とともに、さらに深くこの地の魅力を感じてみたいと思います。
2022.07.25 18:34 | comment(0)
+-Profile-+
プロフ

御朱印集め初心者夫婦が自由気ままに御朱印巡りをしています。

insta
+-記事検索-+
+-お知らせ-+
リニューアル完了しました。
+-最新記事-+
+-最近のコメント-+
+-カテゴリー-+
+-アーカイブ-+
<< 2024年11月
RSSフィード