真田山長谷寺
真田幸隆開基、真田一族菩提寺の起源となるお寺「真田山長谷寺」で書置きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「真田山種月院長谷寺」
長野県上田市真田町長4646


「六地蔵」
駐車場から墓地の脇の坂道を境内へと登っていくと両脇に3体ずつお地蔵様が並んでいました。

長谷寺は天文16年(1547年)信濃小県郡真田郷を領した真田幸隆が居城・松尾城内(真田氏本城)にあった種月庵跡地に禅僧・伝為晃運を招き創建しました。
慶長5年(1600年)徳川秀忠と真田昌幸が争った第二次上田合戦の際に、徳川勢に放火され焼失してしまいました。
そののち長谷寺は再建され、上田藩主となっていた幸隆の孫にあたる昌幸の嫡子・信之により幸隆夫妻と昌幸の菩提所として保護されていましたが、元和8年(1622年)に幕府の命令によって真田氏は松代へ転封となったため、長谷寺の6世住職も松代に移り住み、松代で真田山長國寺を開山しました。
長谷寺は明治23年(1890年)に火災によって焼失しましたが、昭和53年(1978年)に本堂などが再建されています。


階段を登って境内に入ると左側に鐘楼が建っていて、お参りする時に鐘をつく事が出来ます。

長谷寺を開基した真田幸隆は永正10年(1513年)に信濃小県の名族・滋野一族の海野棟綱の子として誕生したとも、棟綱の娘婿・真田頼昌の子であるともいわれていて、確実な出自が記録された資料は現在まで発見されていないそうです。
正確な名前は真田幸綱といいました。(ここではあえて幸隆と表記します)
天文10年(1541年)5月、海野平の戦いで敗れた滋野一族は、関東管領上杉憲政を頼って上野国に落ち延びました。
幸隆は長源寺に寄宿していて、ここでのちに長谷寺の初代住職となる禅僧・伝為晃運と出会いました。
天文16年(1547年)甲斐の武田晴信(信玄)に臣従して旧領の小県郡真田郷を回復すると、真田氏の本城・松尾城に伝為晃運を招き真田氏の菩提寺として長谷寺を創建しました。
天文17年(1548年)2月14日、武田晴信が村上義清と争った上田原の戦いでは、武田家臣団筆頭格・板垣信方の脇備えとして参陣していましたが、村上勢に隙を突かれた信方は討死してしまいました。
天文20年(1551年)5月、武田晴信は前年に手痛い敗戦を喫した村上方の砥石城の攻略を幸隆に命じました。
5月26日に幸隆は調略を用いてわずか1日で攻略したそうで、戦国時代の記録史料「高白斎記」には幸隆の砥石攻略を「乗取」と記載してあり、同年に弟・矢沢頼綱を支援して村上氏一族の山田国政と吾妻清綱を攻め滅ぼして荒砥城を攻略している事と何か関係がありそうです。
この頃、弟の矢沢頼綱は村上氏に属していた可能性もあり、村上方の荒砥城主だった山田国政は、砥石城で討死した記録などもある事から、幸隆は砥石城にいた弟を寝返らせて、砥石城主と砥石城に来訪していた荒砥城主・山田国政を討取らせて無血開城させたのかも知れません。
砥石城攻略の功績で、幸隆は武田晴信より真田氏旧領全てを与えられると砥石城代を任されました。
その後も幸隆は武田家中でも群を抜く働きをしたそうで、知略だけじゃなく「攻め弾正」の異名を持つほど武功にも優れ、国人領主でありながら譜代衆と並ぶ重臣クラスの待遇だったそうです。
永禄2年(1559年)主君・晴信が出家して信玄と名乗ると、幸隆も剃髪して一徳斎幸隆(いっとくさいこうりゅう)と号するようになった事から、後世、幸隆(ゆきたか)と読まれるようになったそうです。
永禄4年(1561年)第4次川中島の戦いで、妻女山に夜襲を掛ける別動隊として、嫡男・信綱とともに参陣していました。
永禄6年(1563年)西上野の戦いでは、上杉氏方の斎藤氏の居城・岩櫃城、永禄8年(1565年)には嵩山城、永禄10年(1567年)には白井城を攻略するなど活躍し、上野攻略の拠点・箕輪城代を任される事もあったようです。
永禄10年(1567年)病のため家督を嫡男・信綱に譲って隠居しました。
天正2年(1574年)5月19日、砥石城で病没したと伝わります。


ちょうどお昼時にお伺いしてしまいましたが、本堂を入ったところにお賽銭箱と書置きの御朱印が置いてありました。
本堂の裏手には真田幸隆夫妻、真田昌幸公の墓所もあります。
2022.08.08 22:52 | comment(0)
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