【象山神社】幕末の天才・佐久間象山を祀る「象山神社」を訪れる
象山神社(ぞうざんじんじゃ)の御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「象山神社」
所在地:長野県長野市松代町1502
駐車場:あり(無料)
アクセス:野駅善光寺口 3番のりばからバス「アルピコ交通 」【30】松代線(古戦場経由 松代高校行)で「松代八十二長野銀行前」 または 「松代中町」下車徒歩約10分

松代の地に、幕末の天才思想家・佐久間象山を祀る神社があります。
それが「象山神社」です。

勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬といった幕末の英傑たちに影響を与え、
西洋技術の導入や海防の重要性をいち早く説いた象山。

その先見の明は、現代から見ても驚かされるものばかりです。

今回は、そんな佐久間象山ゆかりの象山神社を訪れ、
その人物像とともに、境内の様子や見どころをじっくりとご紹介していきます。


鳥居脇に建つ佐久間象山の銅像。

■佐久間象山とはどんな人物か---

佐久間象山は、幕末に活躍した思想家であり、松代藩士でした。

文化8年(1811年)2月28日、
藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人でもあった佐久間一学国善の嫡男として生まれます。

幼い頃から兵学や朱子学に精通し、その才能は高く評価されていました。

🎓 若き日の才能と挫折

天保2年(1831年)、
第8代藩主・真田幸貫の嫡男・幸良の教育係に抜擢されます。

しかし象山は、父への孝行を理由に、わずか2か月で辞任。

さらに翌年の武芸大会では、門弟名簿の序列をめぐって藩と対立し、
藩主の不興を買って閉門蟄居を命じられてしまいます。

👉 このあたり、信念を曲げない性格がよく表れていますね。

その後、父の病をきっかけに赦免され、再び道を歩み始めます。

📚 江戸で開花した才能

天保4年(1833年)、江戸へ遊学。

儒学者・佐藤一斎に学び、
その才能から山田方谷と並び「佐門の二傑」と称されるようになります。

さらに江戸で私塾「象山書院」を開き、学問を教えるまでに成長しました。

🔥 海防と西洋技術への挑戦

天保13年(1842年)、
藩主・幸貫が幕府の海防を担当すると、象山は顧問として抜擢されます。

アヘン戦争をきっかけに海外情勢を研究し、
「海防八策」を提言。

その後、蘭学や西洋兵学を学び、
江川英龍のもとで西洋砲術を習得しました。

なんと象山は

大砲の鋳造
ガラス製造
地震予知器の開発

などにも成功しており、まさに技術者としても超一流だった人物です。

⚔️ 幕末の英傑を育てた教育者

嘉永4年(1851年)、江戸に「五月塾」を開設。

ここには
勝海舟
吉田松陰
坂本龍馬
橋本佐内

といった幕末の英雄たちが集まりました。

🚢 ペリー来航と「急務十条」

嘉永6年(1853年)、
マシュー・ペリーが来航。

象山は浦賀に派遣され、門弟の松陰らと議論を重ね、
幕府に「急務十条」を提出しました。

 急務十条
一、堅固の船を備えて水軍を調練すべきこと。
二、防堵(ぼうと)を城東に新築し、相模・房総近海のものを改築すべきこと。
三、志気鋭精・筋骨強壮の者を選び大砲隊を編成すべきこと。
四、慶安(けいあん)度の軍制を改正すべきこと。
五、砲政を定めて広く硝田(しょうでん)を開くべきこと。
六、警急のために将材を選ぶべきこと。
七、その短を捨てその長を用い、その名に従わずその実を講ずべきこと。
八、綱紀を正し、士気を振るうべきこと。
九、大小銃を演習し、四時間断なからしむること。
十、諸藩海防人数、聯事(れんじ)の法をもって編成すべきこと。

👉 これは後の海軍構想にもつながる、非常に先進的な提言です。

⚠️ 松陰事件と蟄居

しかし嘉永7年(1854年)、
吉田松陰の密航事件に連座し、象山も投獄。

死罪の可能性もありましたが、
阿部正弘らの働きで助命され、
松代での蟄居生活を送ることになります。

🗡️ 最期と評価

元治元年(1864年)、
徳川慶喜に招かれて上洛。

公武合体と開国を説きますが、
同年7月、尊皇攘夷派の志士に暗殺されてしまいました。

🌿 まとめ

佐久間象山は、
学者であり、技術者であり、教育者でもあった人物です。

そして何より、
時代の先を見通す「先見の明」を持っていました。

その才能が活かされる前に命を落としたことは、
本当に惜しまれてなりません。


参道から見た社殿は、後方に高い建物が一切なくて空が広がり素敵な景観です。
参道の左側には池もあって、散策するのがとても気持ちの良い神社です。


佐久間象山像と志士の群像

「佐久間象山」
「勝海舟」
「坂本龍馬」
「橋本左内」
「吉田松陰」
「真田幸貫」
「小林虎三郎」

全部で七体の銅像が建てられています。
写真は「勝海舟」「真田幸貫」「佐久間象山」です。


■象山神社の創建
大正2年(1913年)の象山殉難五十年祭を機に神社建立の機運が高まると、
地元松代町出身の大審院長・横田秀雄氏を中心に県下全市町村及び信濃教育会など、
多くの方々の協力によって建立が計画されました。

昭和13年(1938年)佐久間象山を主祭神として佐久間象山邸跡地に「象山神社」が創建されました。


「象山神社 社殿」
総桧材桃山式流造の社殿は神社創建時に建立されたそうです。
実は象山、幕末の英傑たちからはあまり評価されていなかったそうです。
勝海舟や高杉晋作からは
「法螺吹き」とまで言われています。

ちなみに象山の妻・順子は門下生・吉田松陰の妹で、
その年の差はなんと25歳もあったそうです。


書置きで頂いた御朱印。
御朱印は社殿左側の授与所で頂く事が出来ます。
象山神社のほかに
「玉依比賣命神社」
「祝神社」
「中村神社」
「白鳥神社」
の御朱印も頂く事が出来ます。
※すべて書置きのため枚数に限りがあるので品切れとなっている場合もあります。


「茶室 煙雨亭」
境内の左奥に佐久間象山宅跡があり、
その一角には暗殺されるまでの2か月間を過ごした茶室があります。
この茶室は、京都木屋町の鴨川畔に建っていた煙雨楼から移築されたものです。
象山先生は、このお茶室で幕末の英傑たちと日本の未来を思案していた---
のかも知れませんね。

象山神社は、単なる史跡ではなく、
時代の先を見据えた人物の志に触れられる場所でした。

佐久間象山の功績や思想を知ったうえで参拝すると、
境内の空気や景色も、どこか違って感じられるように思います。

幕末の歴史が好きな方はもちろん、
これから学びたいという方にもぜひ訪れてほしい場所です。

次に訪れるときは、象山が見据えていた“これからの日本”に思いを馳せながら、
もう一度ゆっくりと歩いてみたいと思います。
2022.07.17 22:05 | comment(0)
【松代長國寺】真田家の歴史が息づく寺「長國寺」― 創建から松代移転までを辿る
「真田山長國寺(しんぜんざん ちょうこくじ)」で直書きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「真田山長國寺」
所在地:長野県長野市松代町松代1015-1
駐車場:あり(無料)
アクセス:JR長野駅からバスで「松代中町」下車徒歩圏内

戦国時代、知略に長けた武将として名を馳せた真田家。
そのルーツと歴史を今に伝える場所が、松代にある真田山長國寺です。

この寺は、真田幸綱(幸隆)が創建した長谷寺を起源とし、
戦火による焼失や移転を経て、現在の地にその姿を残しています。

幸綱から昌幸、そして信之へと受け継がれてきた真田家の歴史が、
この一寺に凝縮されていると言っても過言ではありません。

今回は、そんな長國寺の成り立ちを辿りながら、
真田家ゆかりの地としての魅力をご紹介していきます。


「長國寺総門」

🏯 真田山長國寺のはじまり

真田山長國寺の起源は、天文16年(1547年)にさかのぼります。

真田幸綱が信濃小県郡・真田荘を領した際、
居城・松尾城内にあった種月庵跡地に、禅僧・伝為晃運を招いて創建した「長谷寺」がその始まりです。

🔥 戦火による焼失

しかし、この長谷寺は
慶長5年(1600年)の第二次上田合戦に巻き込まれ、焼失してしまいます。

この戦いは、徳川秀忠と
真田昌幸が激突したことで知られる戦いでした。

🌿 再建と墓所としての役割

その後、長谷寺は再建され、

上田藩主となっていた真田信之によって、

祖父・幸綱夫妻、そして父・昌幸の墓所として大切に守られていきます。

⛩️ 松代へ ― 長國寺の創建

元和8年(1622年)、幕府の命により真田氏は松代へ移封されます。

これに伴い、長谷寺の住職も松代へ移り、
新たに開かれたのが「真田山長國寺」でした。

こうして長國寺は、真田家の菩提寺として
松代の地にその歴史を受け継いでいくことになります。


「長國寺本堂」
とても迫力のある本堂、昔は一万坪の境内地に多数の伽藍が軒を連ねていたそうですが、度重なる火災によって焼失してしまったそうです。


🏯 真田幸隆?幸綱?名前の違いについて

歴史ゲームや小説では「真田幸隆(ゆきたか)」として知られていますが、
実際の名前は「真田幸綱(ゆきつな)」が正しいとされています。

「幸隆」という名は晩年に名乗っていたもので、
出家時の名前が「一徳斎幸隆」と記されていることから、
本来は「こうりゅう」と読むのが正しいとも言われています。

+---長國寺のルーツ、長谷寺創建までの流れ---+

⚔️ 海野平の戦い

天文年間初頭――
北信濃では村上義清と、信濃進出を狙う甲斐の武田信虎が争いを繰り返していました。

その一方で東信濃には、関東管領・山内上杉氏を後ろ盾とする
海野棟綱、禰津元直、真田幸隆ら滋野一族が勢力を保っていました。

🔥 連合軍の侵攻

天文10年(1541年)5月、村上義清は
甲斐の武田氏、さらに諏訪氏と同盟を結びます。

こうして村上・武田・諏訪の連合軍は、
滋野一族の支配する小県郡へ侵攻を開始しました。

まず、国境に位置する尾野山城が攻め落とされ、
5月13日には神川付近で両軍が激突します。

⚔️ 神川の戦いと敗北

この戦いで滋野一族は奮戦するものの、
数で勝る村上軍に押されて劣勢に。

惣領家の海野棟綱は、嫡子・幸義を討たれるなど大きな損害を受け、敗北しました。

🏯 海野平での決戦

さらに5月23日、連合軍は海野庄へ迫ります。

これを迎え撃つため、滋野一族は海野平で野戦を挑みますが、
5月25日、ついに総崩れとなり壊滅的敗北を喫しました。

海野棟綱、真田幸隆、そして禰津元直の子・政直らは、
関東管領・上杉憲政を頼って上野国へ落ち延びることになります。

🧭 その後の動き

一方で、禰津元直や幸隆の弟・矢沢頼綱は連合軍に降伏し、武田信虎の配下となりました。

さらに、禰津元直の娘は信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)の側室となり、
「禰津御寮人」として知られるようになります。

🤝 伝為晃運との出会い

長谷寺を開いた伝為晃運は、もともと上野国後閑にある長源寺の僧でした。

天文10年(1541年)、海野平の戦いで敗れた幸綱は上野へ落ち延び、長源寺に身を寄せることになります。

そこで出会ったのが、伝為晃運でした。

⛩️ 長谷寺創建へ

その後、天文16年(1547年)、
武田晴信に仕えて旧領・真田荘を回復した幸綱は、

真田氏の本城・松尾城に伝為晃運を招き、
菩提寺として長谷寺を創建します。

上野で過ごした約6年間の中で、
二人の間には強い信頼関係が築かれていたのでしょう。


🏯 長國寺本堂の鯱(シャチ)
この鯱は、かつて松代藩の藩庁が置かれていた海津城から移設されたものだそうです。

土台部分には真田家の家紋である六文銭があしらわれており、
歴史好きにはたまらない見どころとなっています(^_-)-☆

■六文銭を見つける楽しみ
境内を歩くと、屋根の瓦、門の装飾、至る所に真田の家紋「六文銭」が隠れています。「あ、ここにも!」「こんなところにも!」
と宝探し気分で歩くのが長國寺流の楽しみ方。


「長國寺本堂」
明治19年(1886年)に再建された本堂。

■本堂にある「伝説の獅子」を探せ!
本堂の欄間(らんま)には、名工・左甚五郎の作とも伝えられる「眠り猫」ならぬ「唐獅子」の彫刻があります。
これ、実は

「夜な夜な本堂を抜け出して悪さをした」

という伝説があり、あまりにリアルすぎて網で閉じ込められた……
なんてエピソードも。
実物を見ると、その鋭い眼光にドキッとしますよ!

■豪華すぎる「霊屋(たまや)」に圧倒される!
一番の見どころは、初代藩主・信之公の霊廟。
なんとこれ、日光東照宮に負けず劣らずの豪華絢爛な装飾が施されているんです。
幕府に遠慮しつつも、「真田の力を見せてやる!」と言わんばかりの黄金と極彩色の彫刻は必見。
特に、信之公が愛したとされる「鶴」や「龍」の彫刻は、今にも動き出しそうな躍動感です。


「放光殿」
放光殿の裏にある墓地には、松代藩6代藩主・真田幸弘の時代、家老として仕えていた恩田木工民親(おんだもくたみちか)のお墓もあります。

恩田民親は幸弘から財政再建のための藩政改革を任され、
「正直」「倹約」
を奨励し、強い意志を持って改革を推し進め、前任者が2度も失敗していた藩政改革を成し遂げた人物です。

民親の業績は「日暮硯」という書物にまとめられ、藩政改革のためのお手本としてその写本が武士のみならず庶民にまで広く愛読されていたそうです。


直書きで頂いた御朱印。
御朱印は本堂右側の庫院で頂けます。

有料となりますが真田信之をはじめとする真田氏代々の松代藩主の墓所も見学する事が出来ます。(👀 見どころ!)
真田家墓所には真田幸村(信繁)父子の供養碑が建立されています。
大正3年(1914年)に、真田氏11代当主・真田幸正氏によって建立されたそうです。

真田山長國寺は、単なる古刹ではなく、
真田家の歩みそのものを今に伝える特別な場所でした。

戦乱の中で焼失しながらも再建され、
そして松代へと移り、その歴史をつないできた背景には、
真田家の強い意志と信仰が感じられます。

実際に訪れてみると、
歴史の中で語られてきた人物たちの存在が、ぐっと身近に感じられるようでした。

真田好きはもちろん、戦国時代に興味のある方にも、
ぜひ一度足を運んでみてほしい場所です。

次に訪れるときは、また違った視点で、
真田家の歴史の奥深さを感じてみたいと思います。
2022.07.15 21:47 | comment(0)
【八龍神社】天慶年間に創建された雨を司る龍神を祀る社
「八龍神社(はちりゅうじんじゃ)」の御朱印を直書きで拝受しました。
2022.07.07参拝

「八龍神社」
所在地:茨城県坂東市生子632
駐車場:なし
アクセス:茨城急行自動車のバス停「岩井車庫」から徒歩で約16分、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)「坂東IC」より約10分

茨城県坂東市に鎮座する八龍神社。

創建は平安時代にまでさかのぼると伝えられ、
坂東の地で起きた動乱や、人々の祈りとともに歩んできた歴史ある神社です。

雨を司る神を祀り、農耕と深く結びついてきたこの地には、
かつての領主や武士、そして農民たちの想いが静かに積み重なっています。

今回は、そんな八龍神社を訪れ、境内の様子や見どころ、
そしてその背景にある歴史についてご紹介していきます。


⛩️ 参道入口の鳥居
朱色に塗られた木造の両部鳥居。

その奥には、昭和17年(1942年)に地元の名士・片倉七郎翁によって奉納された石鳥居が建てられています。

時代の異なる二つの鳥居が並ぶ光景は、歴史の積み重なりを感じさせてくれます。


🏯 拝殿
平成11年(1999年)に再建された拝殿。
新しさの中にも、しっかりとした風格が感じられる社殿です。

📜 八龍神社の由緒
八龍神社の創建は、天慶年間(938年〜947年)と伝えられています。

この時代、坂東では平将門が起こした「承平天慶の乱」が勃発。
将門は関東一帯を掌握し、自らを「新皇」と称して朝廷と対立しました。

しかし天慶3年(940年)、討伐軍との戦いで流れ矢により討死。

将門は、荒地だった坂東の地で馬牧の経営や製鉄による農具開発を行い、農地開拓を進めた人物でもあり、農民からの信頼が厚かったとされています。

そのため、この地を治めた後の領主が、農民の支持を得るために
雨を司る神・高闇龗命を祀ったことが、神社の始まりだったのかもしれません。

🏯 江戸時代の保護

寛文2年(1662年)には、関宿藩主・板倉重郷により、
社領七反余歩が年貢免除の地として認められました。

さらに享保4年(1719年)には、神祇権大副・吉田兼敬より
「正一位八龍神」の扁額が寄進されています。

当時、吉田家は全国の神社を統括するほどの権威を持つ神道家であり、
その吉田家からの寄進というのは、非常に格式の高いものでした。


八龍神社の創建は天慶年間(938年~947年)と伝わります。
この頃、坂東に拠点を置いた平将門による承平天慶の乱が起こり、将門は関東全域を手中に収め新皇と自称して朝廷と対立しました。
天慶3年(940年)2月14日、将門は朝廷の派遣した追討軍との戦で流れ矢が額に刺さり討死してしまいました。
将門は荒地だった坂東の地を豊かにするため馬牧の経営と製鉄による農具の開発などを行って、農民たちと農地の開墾を進めたため農民からの信頼が篤かったとされています。
岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた将門のあとに当地を領した領主によって、農民の支持を集めるために雨を司る神「高闇龗命」を祀る神社が建立されたのかも知れません。
寛文2年(1662年)には下総関宿藩第2代藩主・板倉重郷より社領・七反余歩が年貢免除となる除地として認められました。
享保4年(1719年)神祇権大副・吉田兼敬より正一位八龍神の額面が寄進されたそうです。
吉田家は寛文5年(1665年)7月に江戸幕府が発布した「諸社禰宜神主法度」の中で「無位の社人、白張を着すべし。その他の装束は、吉田の許状をもつてこれを着すべき事。」と記されるほどの権威を持った神道家でした。
このため全国の神職は上京し、吉田家に神道裁許状を求めたため、諸社禰宜神主法度発布後は吉田家がほぼ全ての神社の神職を管理下に置きました。


拝殿の扁額
拝殿には、金色の文字で社号が刻まれた立派な扁額が掲げられています。
歴史の重みと格式を感じさせる、見どころのひとつです。



🏚️ 境内に残る古い社殿
広い境内には、ひときわ目を引く古い社殿が建っていました。

境内社なのか、それとも八龍神社の旧社殿なのかは不明ですが、
かなり朽ちた様子から、長い年月を経てきたことがうかがえます。

それでも、彩色された彫刻は非常に豪華で、かつての姿の美しさを感じさせてくれます。

このまま失われてしまうのは、どこか寂しさを覚えますね(*‘ω‘ *)


八龍神社の御朱印は沓掛香取神社で頂く事が出来ます。

八龍神社は、華やかな観光地ではありませんが、
長い歴史の中で人々の暮らしと深く結びついてきた、静かで味わいのある神社でした。

境内に残る古い社殿や彫刻からは、
かつての信仰の厚さや、この地で大切にされてきた歴史が伝わってきます。

こうした場所を実際に歩いてみると、
書物だけでは感じられない“土地の記憶”に触れられるのが魅力ですね。

派手さはなくとも、じっくりと歴史を感じたい方には、ぜひ訪れてほしい神社です。
2022.07.11 23:57 | comment(0)
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