川中島古戦場八幡社
上杉VS武田の激闘‼第四次川中島の戦いで武田信玄が勝鬨を挙げた社「川中島古戦場八幡社」で御朱印2種と御朱印帳を拝受しました。
2022.06.08参拝

謙信・信玄一騎打ちの場面がデザインされた御朱印帳はとてもかっこよくて、ここに訪れたら絶対手に入れておくべきだと思います。

「川中島古戦場八幡社」
長野県長野市小島田町1362(川中島古戦場史跡公園内)


境内入口には「武田・上杉両雄一騎打ちの地 八幡原」と刻まれた石碑が建っていました。
実際、一騎打ちがあったとされる場所は、ここから離れた場所にあります。

「武田信玄と上杉謙信の一騎打ち」と言われますが、この頃、謙信はまだ出家しておらず名は政虎といいました。
八幡原で行われたと伝わる一騎打ちですが、上杉家の資料では御幣川で行われ信玄が手傷を負って退却したと記載されています。
北越太平記には、徳川幕府のブレーンとなった大僧正・南光坊天海の目撃談も掲載されているそうですが、はたして激戦の繰り広げられている戦場の最前線に、本当に天海さんがいたんでしょうか?
武田側の資料、甲陽軍鑑では、白手拭で頭を包み、萌黄の胴肩衣姿で月毛の馬に乗った武者が、床几の信玄に三太刀切りつけ、信玄は床几から立ち上がるとこれを軍配で受け止め、御中間頭・原大隅守が槍で馬を突き、騎馬武者は走り去った、後にこの時の騎馬武者が上杉政虎であったと判明したと記されていて、どちらの言い分が正しいのかは未だ判明していないそうです。


境内に入って左側に「川中島大合戦図」という第四次川中島の戦いの両軍布陣図があります。
5度12年に及んだ川中島の戦いの中でも第四次川中島の戦いは八幡原の戦いともいわれ、1番激しい戦闘が繰り広げられた歴史的な合戦でした。

永禄4年(1561年)8月、越後の上杉政虎が関東の後北条氏との戦の隙を突いて武田方に築かれた海津城攻略のため、1万8千の大軍で信濃に進軍を開始しました。
信濃善光寺に5000の兵を残し、1万3千の兵を率いて千曲川を渡ると8月16日、長野盆地南端の妻女山に布陣を完了させました。
海津城を守る春日虎綱(高坂昌信)より政虎出陣の急報を受けた武田信玄は、甲府から2万の大軍を率いて信濃に入ると千曲川を挟んで妻女山と対峙する塩崎城に入り本陣を構え、妻女山を海津城と包囲する布陣をとりました。
両軍動きのないまま膠着状態が続いたため、信玄は政虎を挑発するように八幡原を横断して海津城に入城しました。
しかし、その後も膠着状態が続くと、兵の士気低下を懸念した信玄は、重臣・馬場信房、軍師・山本勘助に作戦立案を命じました。
この時、山本勘助が献策し信玄が採用した作戦が、歴史的にも有名な「啄木鳥の戦法」です。
妻女山に陣取る上杉軍を武田別動隊が奇襲して、妻女山から下ってくる上杉軍を武田本隊が八幡原で殲滅する、というものでしたが、作戦前日に武田陣営から揚がる炊煙の多さに違和感を感じ取った政虎は、この策を見破り、夜中のうちに下山して八幡原に布陣しました。
9月9日深夜、馬場信房、春日虎綱、飯富虎昌、小山田信有、真田幸綱(幸隆)らが率いる武田別動隊1万2千は、密かに海津城を進発すると、上杉政虎が陣を置く妻女山の後方に回り込み、信玄本隊8千は、八幡原に鶴翼の陣を敷きました。
午前8時頃、川中島を覆っていた深い霧が晴れると、信玄本隊の目前に上杉政虎の大軍勢が布陣していました。
信玄の敷いた鶴翼の陣形は、文字通り鶴が翼を拡げたように横に長く延びた形で、信玄の本陣はかなり危険な位置にありました。
意表を突かれ動揺する武田軍に対し政虎は、新手の部隊を次々と繰り出す車懸りの陣で武田本陣に攻撃を開始、本陣の両脇に配されていた武田緒将の部隊も必死に応戦し、本陣を守るべく上杉軍に突撃していきました。
武田軍は信玄の実弟・武田信繁、軍師・山本勘助、侍大将・室住虎光、足軽大将・初鹿野忠次らが次々と討取られ、信玄の本陣も上杉の先鋒・柿崎景家の猛攻に壊滅寸前となりました。
手薄となった武田本陣に、上杉方の騎馬武者が猛然と突進してきました。
騎馬武者は床几に腰かけた信玄を見つけ、馬上から太刀を振るいましたが、立ち上がった信玄は鉄製の軍配でこれを受け止めました。
騎馬武者は3度襲い掛かったそうですが、信玄の御中間頭・原虎吉が騎馬武者の馬を槍で突いて、信玄の窮地を救ったそうです。
午前10時頃、完全に裏をかかれた武田別動隊は、上杉軍が殿軍として配していた甘粕景持隊を撃破し八幡原へ到着、上杉軍を挟撃する形となった武田軍に戦の流れが傾きました。
形勢不利となった政虎は全軍撤退を決断し、犀川を渡って善光寺に退却したため、この戦を勝ちとした信玄は、八幡社で勝鬨を挙げたそうです。


海津城(2011.09.08旦那撮影)
信濃の豪族・清野氏の居館を甲斐武田氏が接収し、川中島地域の拠点城郭として整備・拡張され、海津城と命名されたそうです。
天正10年(1582年)3月、織田信長によって武田氏が滅亡、海津城は織田家臣・森長可の居城となりました。
しかし、6月の本能寺の変により織田信長が横死し、長可は信濃を放棄して退却したため空白地となっていた海津城は、信濃へ侵攻した越後・上杉氏の支配となりました。
この時、上杉氏の家臣となっていた村上義清の子・村上国清(山浦景国)が海津城主となって、坂城神社に隣接していた村上氏居館跡地の一角に満泉寺を建立し、父・村上義清の菩提寺としました。
慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に移封となると豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられました。
慶長5年(1600年)森忠政が城主となり、海津城は待城、慶長8年(1603年)松平忠輝の城主時代には松城と呼ばれるようになったそうです。
元和8年(1622年)10月、真田信之が上田から移封され、真田3代目藩主・幸道の時に幕命により松代城と改名されました。
以後、松代城は、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となったそうです。


参道の鳥居
青銅製の扁額には金色の文字で八幡社と書かれています。


境内に建てられている一騎打ちの銅像
信玄に一騎打ちを挑んだ騎馬武者、実は上杉政虎ではなく上杉家臣で旗本先陣を務めた荒川長実だったというのが有力な説なんだそうです。
荒川長実は、上杉謙信の影武者も務めたという逸話もあるらしいです。


川中島古戦場八幡社は平安時代中頃、河内源氏頼清流の氏族・源顕清が当地に八幡大武神を勧請した事が由来と伝わっています。
顕清は、白河院蔵人を務め院昇殿を許された身分でしたが、嘉保元年(1094年)8月、堀河天皇の六位蔵人だった兄・源惟清が白河院を呪詛した咎により失脚し、それに連座して信濃国に配流されました。
のちに顕清の養子となった甥・盛清の子・為国が、信濃村上氏の家祖とも伝わっています。


御朱印は武田家・上杉家家紋入りなど、6種類ありました。


拝受した御朱印帳に直書きで頂いた通常御朱印。
このほか、両家家紋入りの御朱印も書置きで頂きました。
2022.07.24 18:17 | comment(0)
坂城神社
北信の猛将・村上義清も崇敬した「坂城神社」で御朱印を頂きました。
2022.06.08参拝

景行天皇40年、第12代景行天皇の皇子・日本武尊が東国征伐の帰途、五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした事が創建の由来と伝わります。
白鳳2年(673年)治国平天下を祈願して社殿が奉建されたそうです。
創建については神社に伝わる景行天皇40年と、社殿が奉建された白鳳2年(673年)で意見が分かれているようですが、管理人は日本武尊が五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした時が創建と捉えています。
日本古代史の英雄が創建したという方がとてもワクワクします!(^^)!

「坂城神社」
長野県埴科郡坂城町坂城1205


「境内の鳥居」
参道や境内は無人とは思えないくらい清掃がされていました。
地域の方々に大切に守られている地域に根差した神社だと思いました。


「坂城神社拝殿」
千鳥破風などはなくシンプルな造りとなっています。

神社の背後には信濃村上氏の居城・葛尾城があり、村上氏代々の葛尾城主から「坂城大宮」と称され崇敬されていたそうです。
村上氏の居館は、境内に隣接していた場所に構えられていたそうで、天正10年(1582年)上杉家臣となっていた村上義清の子・村上国清(山浦景国)が、居館跡地の一角に満泉寺を建立しました。
天文22年(1553年)甲斐武田氏に居城・葛尾城を落とされた村上氏が越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り落ち延びると、坂城神社も衰退してしまったそうです。
永禄11年(1568年)信濃攻略が一段落した武田信玄によって社領が寄進され、坂城大宮は再興されました。
天正7年(1579年)には武田勝頼からも社領を安堵されたそうです。

信濃村上氏は村上義清が当主の頃、北信濃では最大の勢力でした。
信濃攻略を目論む甲斐の武田晴信(のちの信玄)が信濃に兵を進めると村上氏と激しい戦となりました。
天文17年(1548年)2月14日、上田原の戦いで義清は上田平に展開、緒戦は優勢だった武田軍の隙を突き先鋒を崩すと、混乱した武田勢は陣を維持できなくなり、ついに義清軍は武田晴信の本陣に猛攻を仕掛けました。
武田本陣の守備隊も村上勢に押され後退し、晴信も手傷を負って退却、村上軍は武田軍に大勝利を収めました。
この時、武田方では武田四天王の1人で諏訪郡代を務める武田家臣団筆頭格・板垣信方と、武田24将の1人で譜代家老・甘利虎泰の超大物2人が討死していて、家督を継いで以来負け知らずだった武田晴信は、苦い敗戦となりました。
天文19年(1550年)9月、信濃国小県郡に侵攻した武田晴信軍は、村上方の支城で東信濃の要衝だった砥石城を攻めました。
砥石城に籠城していた城兵は奮戦して持ち堪え、葛尾城から村上義清の本隊も到着し、武田軍の挟撃に成功します。
戦況が不利と見た武田晴信軍は撤退を開始しましたが、1000名を超える将兵と重臣・横田高松が討取られ、またしても村上義清軍に大敗を喫しました。
この敗戦は「砥石崩れ」と言われ、歴史好きの方々には有名な話なんだそうです。


書置きで拝受した御朱印、参拝日は自身で書入れるようになっています。
御朱印やお札などは、お賽銭箱の裏に箱がありその中に入っているものを自分で取って頂きます。
初穂料はお賽銭箱に入れて下さい。

2022.07.21 17:55 | comment(0)
武水別神社
越後の龍・上杉謙信の勧請文が残る「武水別神社」で御朱印を頂きました。
2022.06.08参拝

第8代孝元天皇の時代に鎮祭されたと伝わります。
孝元天皇は欠史八代の一人で、その実在性について詳しい事はわかっていません。
六国史での初見は貞観8年(866年)で、無位から従二位の神階奉授を受けたとあるそうです。

「武水別神社」
長野県千曲市大字八幡3012


境内の一角には「甲越八幡の戦い」の記念碑があります。
歴史的にも有名な川中島の戦いの初戦は武水別神社付近で行われた「更科八幡の戦い」でした。

天文22年(1553年)4月、北信濃最大勢力だった村上氏でしたが武田家臣・真田幸隆の調略によって砥石城を落とされると、味方であった国人衆が次々と寝返り支城も武田方となったため、村上氏の本城・葛尾城は危機的状況に陥りました。
領国を維持できなくなった葛尾城主・村上義清は、息子・国清とともに葛尾城を放棄して、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びてしまいます。
これにより、長尾景虎は北信濃への介入を余儀なくされ、以後5回、12年間にわたる川中島の戦いに発展しました。

天文22年(1553年)5月、長尾景虎と長野盆地を支配する反武田の諸豪族の支援を受けた村上義清は、五千の兵を率いて北信濃の奪還戦に臨みました。
武水別神社近くの八幡の地で武田勢と合戦に及び勝利すると、武田軍を深志城(松本城)まで後退させました。
義清は塩田城、葛尾城などを奪還し、北信濃の領地を回復しました。
しかし、7月には武田晴信が大軍を率いて北信濃に侵攻し村上方の諸城を攻略、義清は塩田城に籠りましたが武田軍に攻められると翌月には城を捨て、再び越後に逃れていきました。
9月には長尾景虎が軍勢を率いて北信濃に入ると、布施で武田軍と戦となりました。
景虎は武田先鋒隊を撃破すると荒砥城を攻略しました。
軍を進め青柳城の攻略に取り掛かった長尾軍に対し、武田晴信も青柳城に援軍を送り荒砥城には夜襲を仕掛けるなどして、長尾勢の退路を断つ作戦に出ました。
景虎は退路を断たれると戦況が不利と判断し、八幡原まで兵を後退させました。
晴信は長尾軍との決戦を避け塩田城に入ったため、景虎も村上氏の旧領復帰はかないませんでしたが一定の戦果を挙げる事は出来たと判断し越後に帰還しました。


「武水別神社拝殿」
平安時代末期より武水別神社一帯は石清水八幡宮の荘園となっていました。
安和年間(968年~970年)石清水八幡宮から源氏の氏神としても知られている八幡神が勧請され、この地方随一の八幡宮として武士から崇敬を集めたそうです。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で青木崇高さんが演じた木曽義仲が、越後の城資職討伐の際に戦勝祈願しました。
青木崇高さん、ワイルドなんだけどカワイさもあってカッコイイ(n*´ω`*n)
川中島の戦いの際には上杉謙信が、武田晴信打倒の戦勝祈願を行い、その時の勧請文なども残されているそうです。
慶安元年(1648年)には江戸幕府から、朱印地として200石を賜ったそうです。


嘉永3年(1850年)に再建された「武水別神社本殿」
善光寺平の五穀豊饒と千曲川の治水を祈念して主祭神に武水別大神がお祀りされています。


2020年公開の映画「透子のセカイ」のロケ地にもなっています。
主要キャストは吉本実憂さん、濱津隆之さん、白石優愛さん、FUJIWARAの原西孝幸さんです。


書置きで拝受した御朱印。
御朱印は本殿左側の祭儀所で頂けます。
限定御朱印もあります。
2022.07.19 18:07 | comment(0)
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御朱印集め初心者夫婦が自由気ままに御朱印巡りをしています。

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