眞田神社
家康が恐れた武将「表裏比興の者・真田昌幸」が築いた上田城址に鎮座する「眞田神社」で、直書きの季節限定見開き「夏越祓御朱印」「月替わり御朱印」と、書置きの枚数限定「疫病終息祈願御朱印」を頂きました。
2022.06.09参拝



「眞田神社」
長野県上田市二の丸1-12


眞田神社には3度目となる訪問です。
1,2回目は旦那の上田城の見学が目的でしたが、今回初めて眞田神社の参詣と御朱印拝受を目的として伺いました。

眞田神社は明治12年(1879年)旧上田藩士や旧領内有志によって藤井松平氏初代の忠山公、二代・忠昭公、そして藤井松平氏の初代上田藩主・三代・忠周公のご霊璽をお祀りする神社として創建されました。
創建当初は「松平神社」と称していましたが、、昭和28年(1953年)に上田城の築城者である真田氏と、真田氏のあとに上田藩主となった仙谷氏、そしてそののち幕末まで藩主を務めた藤井松平氏の歴代城主が合祀され「上田神社」と改称しました。
しかし、市内には同名他社が存在し紛らわしいとの事から、昭和38年(1963年)に上田城初代城主で築城者でもある真田昌幸公の名を冠して「眞田神社」と改称し現在に至ります。


眞田神社拝殿
拝殿前には六文銭がデザインされた写真撮影用のパネルが設置されていました。
お賽銭箱の上の赤い六文銭に手をかざすと、鈴の音が聞こえてきます。


境内には「青年 真田幸村公の像」が建てられていました。
実は、真田幸村は上田城で過ごした期間はとっても短かったんです。
第一次上田合戦の際には、越後・上杉景勝の元へ人質として赴ていて参陣していませんでしたし、その後、豊臣家臣となった真田昌幸は幸村を人質として大阪へ送っていたので、幸村の上田入城は慶長5年(1600年)徳川家康の会津・上杉氏討伐の時、徳川方から離反して上田城に入ったのが初めてだったと考えられます。
更に、歴史好きの方には周知の事実ですが、真田幸村が生前、幸村と名乗った事はなく、江戸時代に書かれた軍記物に初めて幸村と表記され、幸の字が真田氏のルーツであった海野氏の通字だった事と、村の字が、なにかと因縁のあった徳川家に伝わる妖刀伝説の「村正」を連想させ、庶民の間で広く定着していったそうです。
幸村という名前が幅広く定着してしまったため、真田氏の正式な記録にまで幸村が使われるようになったんだそうですよ。
幸村の本名は真田信繁で、昌幸は、仕えていた武田信玄の実弟・信繁のように、兄・信幸を裏切る事なく支えるよう願って付けた名前なのかも知れませんね。


季節限定見開き「夏越祓御朱印」
直書きで初穂料は500円と、とっても良心的です。
月替わりの御朱印も直書きで初穂料300円なのに、めちゃめちゃクオリティーが高くて、遠方の方は郵送で拝受されても絶対に満足できると思います。


二ノ丸跡の上田城跡公園にあった真田幸村公の山車、お祭りで曳かれるものなのでしょうか?


「上田城 南櫓と東虎口櫓門」
二度も徳川の大軍を退けた上田城、築城者の真田昌幸は豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評されるほどの智将だったそうです。
昌幸のお父さんの幸隆も知略に優れた武将で、武田信玄が大敗した砥石城を、調略によって攻略した凄い武将だったそうです。

第一次上田合戦
天正10年(1582年)6月、本能寺の変により織田信長が横死し、同年2月に信長によって滅ぼされた武田家旧領、上野・甲斐・信濃の統治が困難になった織田家臣が相次いで撤退すると、越後の上杉景勝、相模の北条氏直、三河の徳川家康が三つ巴となって空白地となった武田旧領を巡る騒乱、天正壬午の乱が勃発しました。
当初、北条家に属していた真田昌幸は、北条家と敵対する徳川家康に寝返ると、西上野を巡って北条家と敵対しました。
しかし10月には、真田家の上野沼田領を北条領、北条家が攻略した信濃佐久郡を徳川領とする事で北条・徳川の和議が成立してしまいます。
天正11年(1583年)昌幸は上野沼田を失った時の事を考え、信濃上田・小県地方制圧の拠点として上田城の築城に着手しました。
天正13年(1585年)沼田領の堅持に策謀を巡らせる昌幸は、家康の沼田領明渡し命令を拒否すると、徳川・北条と敵対する越後の上杉景勝に次男・真田信繁(幸村)を人質として差し出す事で臣従し、徳川家から離反しました。
上田城築城当初は敵対していた上杉氏の侵入口となる北側に予定していた大手門を、対徳川を想定し東側へと変更しました。
同年7月、家康は浜松で真田家の造反の報せを聞くと激怒し、真田氏の討伐を下知しました。
8月に鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らが率いる7千の大軍勢が、上田盆地の信濃国分寺付近に布陣しました。
昌幸は1200の手勢で本拠・上田城に籠城、支城の砥石城に嫡男・信幸、矢沢城に従兄弟の矢沢頼康を上杉の援兵とともに籠城させて防衛ラインを確保しました。
徳川軍は上田城に攻撃を開始すると二ノ丸まで侵入しましたが、昌幸は巧みな戦術で撃退に成功します。
城内に侵入した徳川軍は撤退を開始しましたが、昌幸の追撃と、砥石城から出陣した信幸隊に側面から攻撃を受けると持ち堪えられず敗走しました。
昌幸・信幸親子は追撃の手を緩める事はなく、矢沢城の矢沢頼康隊も加わり敗残兵を神川へ追い込むと、多くの徳川兵を溺死させました。
真田軍の損害はわずか40名、一方、大軍で攻め寄せた徳川軍は1300人の将兵を失い、大惨敗を喫しました。
第一次上田合戦と言われるこの戦いで、真田昌幸の地の利を活かした戦略や、類稀なる策謀に徳川家康の昌幸に対する評価は高まり、のちに重臣・本多忠勝の娘・小松姫を昌幸の跡継ぎである真田信幸へ嫁がせて、真田氏の懐柔策を進めたとも言われています。

第二次上田合戦
慶長5年(1600年)6月、豊臣秀頼政権の五大老筆頭となっていた徳川家康は、五大老の一人だった会津の上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に謀反の兆しがあるとして上杉討伐を下知、家康に従う大軍勢が会津へ向けて進軍を開始しました。
真田昌幸は家康の重臣・本多忠勝の娘婿となっていた嫡男・信幸、そして次男・信繁とともに家康の軍に参陣しました。
その頃、家康不在の隙を狙い石田三成が五大老の一人で安芸の大大名・毛利輝元を総大将に担ぎ大阪で挙兵すると、罪状13ケ条を書き連ねた豊臣秀頼政権三奉行の連署からなる徳川家康弾劾の書状を諸大名に送るなど、多数派工作を開始しました。
下野国犬伏で三成の書状を受け取った昌幸は、本多忠勝の娘婿の嫡男・信幸を徳川方(東軍)に残し、西軍参謀格・大谷吉継の娘婿・信繁とともに石田方(西軍)へ与するべく上田城へ引き返しました。
家康は、息子・徳川秀忠に3万8千の大軍を与え、本多正信・榊原康政・大久保忠隣など歴戦の猛者を配下につけて中山道の制圧を命じました。
9月2日、秀忠率いる3万8千の軍勢が信濃小諸城に入ると上田城に2千の手勢で籠る昌幸は、翌日の3日、信幸を通じて上田城の明け渡しと助命を申し入れました。
この戦が初陣だった秀忠はこの申し入れを了承し、自身の大軍を前に恐れを成したと侮っていましたが、翌日には昌幸の態度が一変し挑発的な態度をとったため、激怒した秀忠は上田城の攻略を決断しました。
5日、秀忠は、上田城の支城で信繁の守る砥石城攻めを真田信幸に命じると、兄・信幸の軍勢が城下に迫った信繁は戦うことなく城を放棄して上田城に退却しました。
翌6日、昌幸・信繁が籠城する上田城を包囲した秀忠は、家臣・牧野康成に上田城下の稲の刈り取りを命じると、苅田を阻止しようとした真田兵と小競り合いが繰り返されました。
徳川四天王の一人で秀忠軍の軍監を務めていた榊原康政は、上田城は無視して西軍との決戦場へ急行すべしと進言しましたが、昌幸の態度に激高していた秀忠は意地になって上田城の包囲を解きませんでした。
その2日後の8日、家康からの「9月9日までに美濃赤坂へ着陣すべし」との書状を上田の陣中で受け取った秀忠は、昌幸の足止め策だった事に気付き、上田城の攻略を断念し陣払いをして美濃に急行しました。
しかし、当時の中山道は道幅が狭く大軍の行軍には不向きな街道だった上に、大雨の影響で川が氾濫して人馬を渡す事が出来なかったなど悪条件も重なって、結局、9月15日に行われた関ケ原の戦いには間に合わず、家康から叱責されたそうです。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦での東軍の勝利によって、西軍に与した真田昌幸・信繁親子は紀伊国九度山に配流となり、上田領には東軍に与した嫡男・信幸(のちに信之に改名)が入封すると信濃上田藩の初代藩主となりました。
昌幸に二度も煮え湯を飲まされた形となった上田城は徳川家によって破壊され、事実上、城郭としての上田城は廃城となりました。
信幸は、上田城三ノ丸跡地に陣屋を構えました。
元和8年(1622年)真田家は信濃・松代藩へと移封され、信濃上田藩には信濃小諸藩より仙石忠政が6万石で入封しました。
仙石氏の時代に上田城の再建が進められましたが、藩主の死去に伴い、本格的な再建は行われませんでした。
宝永3年(1706年)3代藩主・仙石政明が但馬出石藩へ移封となり、以降は藤井松平氏が明治維新まで上田藩主を務めました。


眞田神社の境内に残る「真田井戸」
この井戸、実は抜け穴となっていて、城北にある砦につながっているそうです。
籠城の時には兵糧米を運んだり、城兵の出入にも困らなかったそうです。
さすがは真田昌幸、抜け目がないですね( ´艸`)

+-眞田神社拝殿の移り変わり-+

眞田神社 拝殿(2009.5.4旦那撮影)
この頃はまだ屋根の千鳥破風などがないシンプルな拝殿でした。
御朱印集めが流行る前だったので、参拝される方は戦国ファンやお年寄りが多かったです。


眞田神社 拝殿(2011.7.1旦那撮影)
浜縁や屋根には千鳥破風が造られるなど、拝殿は綺麗に改修されていました。


眞田神社 拝殿(2022.6.9撮影)
前回訪問時から11年経って、千鳥破風や浜縁の真新しかった白木も、だいぶ黒くなって渋みが出てました。
境内には真田信繁公の銅像や伊勢神宮内宮遙拝所が設けられ、社務所前には「御朱印」の幟旗が立ち、多くの参拝者がいらっしゃいました。
お賽銭箱も大きくなり、社務所も御朱印専用窓口ができてお守りなどの種類もかなり豊富になっていました。


御朱印やお守りの郵送頒布にも対応してますのでご希望の方は、眞田神社公式HPをチェックしてみて下さい。
2022.07.25 18:34 | comment(0)
川中島古戦場八幡社
上杉VS武田の激闘‼第四次川中島の戦いで武田信玄が勝鬨を挙げた社「川中島古戦場八幡社」で御朱印2種と御朱印帳を拝受しました。
2022.06.08参拝

謙信・信玄一騎打ちの場面がデザインされた御朱印帳はとてもかっこよくて、ここに訪れたら絶対手に入れておくべきだと思います。

「川中島古戦場八幡社」
長野県長野市小島田町1362(川中島古戦場史跡公園内)


境内入口には「武田・上杉両雄一騎打ちの地 八幡原」と刻まれた石碑が建っていました。
実際、一騎打ちがあったとされる場所は、ここから離れた場所にあります。

「武田信玄と上杉謙信の一騎打ち」と言われますが、この頃、謙信はまだ出家しておらず名は政虎といいました。
八幡原で行われたと伝わる一騎打ちですが、上杉家の資料では御幣川で行われ信玄が手傷を負って退却したと記載されています。
北越太平記には、徳川幕府のブレーンとなった大僧正・南光坊天海の目撃談も掲載されているそうですが、はたして激戦の繰り広げられている戦場の最前線に、本当に天海さんがいたんでしょうか?
武田側の資料、甲陽軍鑑では、白手拭で頭を包み、萌黄の胴肩衣姿で月毛の馬に乗った武者が、床几の信玄に三太刀切りつけ、信玄は床几から立ち上がるとこれを軍配で受け止め、御中間頭・原大隅守が槍で馬を突き、騎馬武者は走り去った、後にこの時の騎馬武者が上杉政虎であったと判明したと記されていて、どちらの言い分が正しいのかは未だ判明していないそうです。


境内に入って左側に「川中島大合戦図」という第四次川中島の戦いの両軍布陣図があります。
5度12年に及んだ川中島の戦いの中でも第四次川中島の戦いは八幡原の戦いともいわれ、1番激しい戦闘が繰り広げられた歴史的な合戦でした。

永禄4年(1561年)8月、越後の上杉政虎が関東の後北条氏との戦の隙を突いて武田方に築かれた海津城攻略のため、1万8千の大軍で信濃に進軍を開始しました。
信濃善光寺に5000の兵を残し、1万3千の兵を率いて千曲川を渡ると8月16日、長野盆地南端の妻女山に布陣を完了させました。
海津城を守る春日虎綱(高坂昌信)より政虎出陣の急報を受けた武田信玄は、甲府から2万の大軍を率いて信濃に入ると千曲川を挟んで妻女山と対峙する塩崎城に入り本陣を構え、妻女山を海津城と包囲する布陣をとりました。
両軍動きのないまま膠着状態が続いたため、信玄は政虎を挑発するように八幡原を横断して海津城に入城しました。
しかし、その後も膠着状態が続くと、兵の士気低下を懸念した信玄は、重臣・馬場信房、軍師・山本勘助に作戦立案を命じました。
この時、山本勘助が献策し信玄が採用した作戦が、歴史的にも有名な「啄木鳥の戦法」です。
妻女山に陣取る上杉軍を武田別動隊が奇襲して、妻女山から下ってくる上杉軍を武田本隊が八幡原で殲滅する、というものでしたが、作戦前日に武田陣営から揚がる炊煙の多さに違和感を感じ取った政虎は、この策を見破り、夜中のうちに下山して八幡原に布陣しました。
9月9日深夜、馬場信房、春日虎綱、飯富虎昌、小山田信有、真田幸綱(幸隆)らが率いる武田別動隊1万2千は、密かに海津城を進発すると、上杉政虎が陣を置く妻女山の後方に回り込み、信玄本隊8千は、八幡原に鶴翼の陣を敷きました。
午前8時頃、川中島を覆っていた深い霧が晴れると、信玄本隊の目前に上杉政虎の大軍勢が布陣していました。
信玄の敷いた鶴翼の陣形は、文字通り鶴が翼を拡げたように横に長く延びた形で、信玄の本陣はかなり危険な位置にありました。
意表を突かれ動揺する武田軍に対し政虎は、新手の部隊を次々と繰り出す車懸りの陣で武田本陣に攻撃を開始、本陣の両脇に配されていた武田緒将の部隊も必死に応戦し、本陣を守るべく上杉軍に突撃していきました。
武田軍は信玄の実弟・武田信繁、軍師・山本勘助、侍大将・室住虎光、足軽大将・初鹿野忠次らが次々と討取られ、信玄の本陣も上杉の先鋒・柿崎景家の猛攻に壊滅寸前となりました。
手薄となった武田本陣に、上杉方の騎馬武者が猛然と突進してきました。
騎馬武者は床几に腰かけた信玄を見つけ、馬上から太刀を振るいましたが、立ち上がった信玄は鉄製の軍配でこれを受け止めました。
騎馬武者は3度襲い掛かったそうですが、信玄の御中間頭・原虎吉が騎馬武者の馬を槍で突いて、信玄の窮地を救ったそうです。
午前10時頃、完全に裏をかかれた武田別動隊は、上杉軍が殿軍として配していた甘粕景持隊を撃破し八幡原へ到着、上杉軍を挟撃する形となった武田軍に戦の流れが傾きました。
形勢不利となった政虎は全軍撤退を決断し、犀川を渡って善光寺に退却したため、この戦を勝ちとした信玄は、八幡社で勝鬨を挙げたそうです。


海津城(2011.09.08旦那撮影)
信濃の豪族・清野氏の居館を甲斐武田氏が接収し、川中島地域の拠点城郭として整備・拡張され、海津城と命名されたそうです。
天正10年(1582年)3月、織田信長によって武田氏が滅亡、海津城は織田家臣・森長可の居城となりました。
しかし、6月の本能寺の変により織田信長が横死し、長可は信濃を放棄して退却したため空白地となっていた海津城は、信濃へ侵攻した越後・上杉氏の支配となりました。
この時、上杉氏の家臣となっていた村上義清の子・村上国清(山浦景国)が海津城主となって、坂城神社に隣接していた村上氏居館跡地の一角に満泉寺を建立し、父・村上義清の菩提寺としました。
慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に移封となると豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられました。
慶長5年(1600年)森忠政が城主となり、海津城は待城、慶長8年(1603年)松平忠輝の城主時代には松城と呼ばれるようになったそうです。
元和8年(1622年)10月、真田信之が上田から移封され、真田3代目藩主・幸道の時に幕命により松代城と改名されました。
以後、松代城は、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となったそうです。


参道の鳥居
青銅製の扁額には金色の文字で八幡社と書かれています。


境内に建てられている一騎打ちの銅像
信玄に一騎打ちを挑んだ騎馬武者、実は上杉政虎ではなく上杉家臣で旗本先陣を務めた荒川長実だったというのが有力な説なんだそうです。
荒川長実は、上杉謙信の影武者も務めたという逸話もあるらしいです。


川中島古戦場八幡社は平安時代中頃、河内源氏頼清流の氏族・源顕清が当地に八幡大武神を勧請した事が由来と伝わっています。
顕清は、白河院蔵人を務め院昇殿を許された身分でしたが、嘉保元年(1094年)8月、堀河天皇の六位蔵人だった兄・源惟清が白河院を呪詛した咎により失脚し、それに連座して信濃国に配流されました。
のちに顕清の養子となった甥・盛清の子・為国が、信濃村上氏の家祖とも伝わっています。


御朱印は武田家・上杉家家紋入りなど、6種類ありました。


拝受した御朱印帳に直書きで頂いた通常御朱印。
このほか、両家家紋入りの御朱印も書置きで頂きました。
2022.07.24 18:17 | comment(0)
坂城神社
北信の猛将・村上義清も崇敬した「坂城神社」で御朱印を頂きました。
2022.06.08参拝

景行天皇40年、第12代景行天皇の皇子・日本武尊が東国征伐の帰途、五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした事が創建の由来と伝わります。
白鳳2年(673年)治国平天下を祈願して社殿が奉建されたそうです。
創建については神社に伝わる景行天皇40年と、社殿が奉建された白鳳2年(673年)で意見が分かれているようですが、管理人は日本武尊が五里ケ峯の麓に祖神をお祀りした時が創建と捉えています。
日本古代史の英雄が創建したという方がとてもワクワクします!(^^)!

「坂城神社」
長野県埴科郡坂城町坂城1205


「境内の鳥居」
参道や境内は無人とは思えないくらい清掃がされていました。
地域の方々に大切に守られている地域に根差した神社だと思いました。


「坂城神社拝殿」
千鳥破風などはなくシンプルな造りとなっています。

神社の背後には信濃村上氏の居城・葛尾城があり、村上氏代々の葛尾城主から「坂城大宮」と称され崇敬されていたそうです。
村上氏の居館は、境内に隣接していた場所に構えられていたそうで、天正10年(1582年)上杉家臣となっていた村上義清の子・村上国清(山浦景国)が、居館跡地の一角に満泉寺を建立しました。
天文22年(1553年)甲斐武田氏に居城・葛尾城を落とされた村上氏が越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り落ち延びると、坂城神社も衰退してしまったそうです。
永禄11年(1568年)信濃攻略が一段落した武田信玄によって社領が寄進され、坂城大宮は再興されました。
天正7年(1579年)には武田勝頼からも社領を安堵されたそうです。

信濃村上氏は村上義清が当主の頃、北信濃では最大の勢力でした。
信濃攻略を目論む甲斐の武田晴信(のちの信玄)が信濃に兵を進めると村上氏と激しい戦となりました。
天文17年(1548年)2月14日、上田原の戦いで義清は上田平に展開、緒戦は優勢だった武田軍の隙を突き先鋒を崩すと、混乱した武田勢は陣を維持できなくなり、ついに義清軍は武田晴信の本陣に猛攻を仕掛けました。
武田本陣の守備隊も村上勢に押され後退し、晴信も手傷を負って退却、村上軍は武田軍に大勝利を収めました。
この時、武田方では武田四天王の1人で諏訪郡代を務める武田家臣団筆頭格・板垣信方と、武田24将の1人で譜代家老・甘利虎泰の超大物2人が討死していて、家督を継いで以来負け知らずだった武田晴信は、苦い敗戦となりました。
天文19年(1550年)9月、信濃国小県郡に侵攻した武田晴信軍は、村上方の支城で東信濃の要衝だった砥石城を攻めました。
砥石城に籠城していた城兵は奮戦して持ち堪え、葛尾城から村上義清の本隊も到着し、武田軍の挟撃に成功します。
戦況が不利と見た武田晴信軍は撤退を開始しましたが、1000名を超える将兵と重臣・横田高松が討取られ、またしても村上義清軍に大敗を喫しました。
この敗戦は「砥石崩れ」と言われ、歴史好きの方々には有名な話なんだそうです。


書置きで拝受した御朱印、参拝日は自身で書入れるようになっています。
御朱印やお札などは、お賽銭箱の裏に箱がありその中に入っているものを自分で取って頂きます。
初穂料はお賽銭箱に入れて下さい。

2022.07.21 17:55 | comment(0)
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