武水別神社
越後の龍・上杉謙信の勧請文が残る「武水別神社」で御朱印を頂きました。
2022.06.08参拝

第8代孝元天皇の時代に鎮祭されたと伝わります。
孝元天皇は欠史八代の一人で、その実在性について詳しい事はわかっていません。
六国史での初見は貞観8年(866年)で、無位から従二位の神階奉授を受けたとあるそうです。

「武水別神社」
長野県千曲市大字八幡3012


境内の一角には「甲越八幡の戦い」の記念碑があります。
歴史的にも有名な川中島の戦いの初戦は武水別神社付近で行われた「更科八幡の戦い」でした。

天文22年(1553年)4月、北信濃最大勢力だった村上氏でしたが武田家臣・真田幸隆の調略によって砥石城を落とされると、味方であった国人衆が次々と寝返り支城も武田方となったため、村上氏の本城・葛尾城は危機的状況に陥りました。
領国を維持できなくなった葛尾城主・村上義清は、息子・国清とともに葛尾城を放棄して、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びてしまいます。
これにより、長尾景虎は北信濃への介入を余儀なくされ、以後5回、12年間にわたる川中島の戦いに発展しました。

天文22年(1553年)5月、長尾景虎と長野盆地を支配する反武田の諸豪族の支援を受けた村上義清は、五千の兵を率いて北信濃の奪還戦に臨みました。
武水別神社近くの八幡の地で武田勢と合戦に及び勝利すると、武田軍を深志城(松本城)まで後退させました。
義清は塩田城、葛尾城などを奪還し、北信濃の領地を回復しました。
しかし、7月には武田晴信が大軍を率いて北信濃に侵攻し村上方の諸城を攻略、義清は塩田城に籠りましたが武田軍に攻められると翌月には城を捨て、再び越後に逃れていきました。
9月には長尾景虎が軍勢を率いて北信濃に入ると、布施で武田軍と戦となりました。
景虎は武田先鋒隊を撃破すると荒砥城を攻略しました。
軍を進め青柳城の攻略に取り掛かった長尾軍に対し、武田晴信も青柳城に援軍を送り荒砥城には夜襲を仕掛けるなどして、長尾勢の退路を断つ作戦に出ました。
景虎は退路を断たれると戦況が不利と判断し、八幡原まで兵を後退させました。
晴信は長尾軍との決戦を避け塩田城に入ったため、景虎も村上氏の旧領復帰はかないませんでしたが一定の戦果を挙げる事は出来たと判断し越後に帰還しました。


「武水別神社拝殿」
平安時代末期より武水別神社一帯は石清水八幡宮の荘園となっていました。
安和年間(968年~970年)石清水八幡宮から源氏の氏神としても知られている八幡神が勧請され、この地方随一の八幡宮として武士から崇敬を集めたそうです。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で青木崇高さんが演じた木曽義仲が、越後の城資職討伐の際に戦勝祈願しました。
青木崇高さん、ワイルドなんだけどカワイさもあってカッコイイ(n*´ω`*n)
川中島の戦いの際には上杉謙信が、武田晴信打倒の戦勝祈願を行い、その時の勧請文なども残されているそうです。
慶安元年(1648年)には江戸幕府から、朱印地として200石を賜ったそうです。


嘉永3年(1850年)に再建された「武水別神社本殿」
善光寺平の五穀豊饒と千曲川の治水を祈念して主祭神に武水別大神がお祀りされています。


2020年公開の映画「透子のセカイ」のロケ地にもなっています。
主要キャストは吉本実憂さん、濱津隆之さん、白石優愛さん、FUJIWARAの原西孝幸さんです。


書置きで拝受した御朱印。
御朱印は本殿左側の祭儀所で頂けます。
限定御朱印もあります。
2022.07.19 18:07 | comment(0)
象山神社
勝海舟 坂本龍馬など、幕末の英傑を生んだ五月塾塾長 佐久間象山がご祭神の「象山神社」で書置きの御朱印と他にも4社の御朱印を頂きました。
頂けるのは長野市に鎮座する「玉依比賣命神社」「白鳥神社」「中村神社」「祝神社」です。
すべて書置きのため数に限りがあります。
品切れとなっている場合もありますのでご注意ください。
2022.06.09参拝

「象山神社」
長野県長野市松代町1502


鳥居脇に建つ佐久間象山の銅像。

佐久間象山は幕末の思想家で松代藩士でした。
文化8年(1811年)2月28日、松代藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人であった事から藩に重用されていた佐久間一学国善の嫡男として生まれました。
兵学・朱子学に精通し、天保2年(1831年)3月、松代藩第8代藩主・真田幸貫の世継ぎとなる長男・幸良の近習として教育係に抜擢されるほど、その才能は高く評価されていました。
しかし象山は、父親が高齢で親孝行が出来なくなる事を理由に、わずか2か月ほどで教育係を辞任してしまいます。
天保3年(1832年)3月に行われた武芸大会で、象山は父・国善の門弟名簿を藩に提出すると、序列に誤りがあるとして藩の年長者に注意を受けましたが、象山は絶対に間違いはないと頑として注意を聞き入れず、この事を聞いた藩主・幸貫の不興を買い、4月11日に閉門蟄居を命じられてしまいました。
閉門蟄居の間に象山の父・国善の病が重くなり、8月17日付で藩主・幸貫は象山を赦免しました。
象山は相手が誰であっても自分の信念を曲げない人物だった事がよくわかる逸話ですね。
天保4年(1833年)11月、象山は江戸への遊学が許され、儒学の第一人者と言われていた佐藤一斎に詩文・朱子学を学ぶと突出した才能から山田方谷と並ぶ「佐門の二傑」と評されるようになりました。
天保10年(1839年)江戸の神田於玉ヶ池で私塾「象山書院」を開いて儒学を指南するほど知識を身につけていたそうです。
天保13年(1842年)松代藩主・真田幸貫が幕府老中兼任で海防掛の任に就くと、象山は顧問として抜擢され、阿片戦争において清国と大英帝国などの海外情勢を研究する任に就きました。
弘化元年(1844年)魏源「海国図志」などを元に「海防八策」を上書した象山は、蘭学修得の必要性を痛感し、オランダ語や西洋式兵学などの習得に励んでいたため、藩主・幸貫から洋学研究の担当者として任命され、日本に西洋砲術を普及させた江川英龍の下で学ぶ事となりました。
象山は大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての地位を確立すると、ガラスの製造や地震予知器の開発にも成功したそうです。
嘉永4年(1851年)象山は江戸に移住して木挽町に西洋の砲術・兵学を教える「五月塾」を開くと、門下生には勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本佐内という幕末の英傑たちが集まりました。
嘉永6年6月3日(1853年)アメリカ海軍の東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリーが率いる艦船4隻が江戸湾の入口となる浦賀に来航した時には、象山は藩の軍議役として浦賀に派遣され門下生の吉田松陰・津田真道らと和戦の得失を論議しました。
象山のまとめた「急務十条」は、江戸幕府老中首座・阿部正弘に奏上されました。

 急務十条
一、堅固の船を備えて水軍を調練すべきこと。
二、防堵(ぼうと)を城東に新築し、相模・房総近海のものを改築すべきこと。
三、志気鋭精・筋骨強壮の者を選び大砲隊を編成すべきこと。
四、慶安(けいあん)度の軍制を改正すべきこと。
五、砲政を定めて広く硝田(しょうでん)を開くべきこと。
六、警急のために将材を選ぶべきこと。
七、その短を捨てその長を用い、その名に従わずその実を講ずべきこと。
八、綱紀を正し、士気を振るうべきこと。
九、大小銃を演習し、四時間断なからしむること。
十、諸藩海防人数、聯事(れんじ)の法をもって編成すべきこと。

のちに提唱される「海軍編成論」の基礎ともいうべきものですね。

嘉永7年(1854年)ペリーが再び浦賀に来航すると、象山門弟の吉田松陰が金子重之輔と漁民の小舟を盗んでペリー艦隊の旗艦・ポーハタン号に乗船し密航を企てましたが、アメリカ側に拒否された上、漕いできた小船も流されてしまったため下田奉行所に自首すると、松陰から相談されていた象山も事件に連座し、伝馬町牢屋敷に投獄され、幕府内では象山・松陰を死罪にする動きもありましたが、旗本・川路聖謨の働きかけにより老中・松平忠固、老中首座・阿部正弘が反対し助命となり、文久2年(1862年)まで、松代での国許蟄居となりました。
元治元年(1864年)象山は一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に招かれて上洛し、公武合体論と開国論を説きましたが、7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の尊皇攘夷派の志士に暗殺されてしまいました。
先見の明があった佐久間象山先生、暗殺されてしまったのは残念です。


参道から見た社殿は、後方に高い建物が一切なくて空が広がり素敵な景観です。
参道の左側には池もあって、散策するのがとても気持ちの良い神社です。


境内に設置された幕末の英雄たちの銅像。
「佐久間象山」「勝海舟」「坂本龍馬」「橋本左内」「吉田松陰」「真田幸貫」「小林虎三郎」
全部で七体の銅像が建てられています。
写真は「勝海舟」「真田幸貫」「佐久間象山」です。


大正2年(1913年)の象山殉難五十年祭を機に神社建立の機運が高まると、地元松代町出身の大審院長・横田秀雄氏を中心に県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって建立が計画されました。
昭和13年(1938年)佐久間象山を主祭神として佐久間象山邸跡地に「象山神社」が創建されました。


「象山神社 社殿」
総桧材桃山式流造の社殿は神社創建時に建立されたそうです。

実は象山、幕末の英傑たちからはあまり評価されていなかったそうです。
勝海舟や高杉晋作からは「法螺吹き」とまで言われています。
ちなみに象山の妻・順子は門下生・吉田松陰の妹で、その年の差はなんと25歳もあったそうです。


書置きで頂いた御朱印。
御朱印は社殿左側の授与所で頂く事が出来ます。
象山神社のほかに「玉依比賣命神社」「祝神社」「中村神社」「白鳥神社」の御朱印も頂く事が出来ます。
※すべて書置きのため枚数に限りがあるので品切れとなっている場合もあります。


「茶室 煙雨亭」
境内の左奥に佐久間象山宅跡があり、その一角には暗殺されるまでの2か月間を過ごした京都木屋町の鴨川畔に建っていた煙雨楼から移築した茶室があります。
象山先生はこのお茶室で幕末の英傑たちと日本の未来を思案していたのかも知れませんね。
2022.07.17 22:05 | comment(0)
松代長國寺
真田信之も眠る、真田幸隆がルーツの松代藩主真田氏代々の菩提寺「真田山長國寺」で直書きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「真田山長國寺」
長野県長野市松代町松代1015-1


「長國寺総門」
真田山長國寺は、天文16年(1547年)信濃小県郡真田荘を領した真田幸隆が居城・松尾城内にあった種月庵跡地に禅僧・伝為晃運を招き創建した長谷寺が起源です。
幸隆開基の長谷寺は、慶長5年(1600年)徳川秀忠と真田昌幸が争った第二次上田合戦の際に戦火に巻き込まれ焼失してしまいました。
そののち長谷寺は再建され、上田藩主となっていた幸隆の孫にあたる昌幸の嫡子・信之により幸隆夫妻と昌幸の墓所として保護されていましたが、元和8年(1622年)に幕府の命令によって真田氏は松代へ転封となったため、長谷寺の6世住職も松代に移り住み、真田山長國寺を開山しました。


「長國寺本堂」
とても迫力のある本堂、昔は一万坪の境内地に多数の伽藍が軒を連ねていたそうですが、度重なる火災によって焼失してしまったそうです。


歴史ゲームや小説などでは真田幸隆(さなだゆきたか)と言われていますが、実際の名前は真田幸綱(さなだゆきつな)が正確な名前だったらしいです。
幸隆は晩年に名乗っていたらしく、出家時に一徳斎幸隆と記されていることから「こうりゅう」と読むのが正しいみたいです。

長谷寺を開山した伝為晃運は、元は上野国後閑にある長源寺の僧侶でした。
天文10年(1541年)5月の海野平の戦いで敗北し上野へ逃れていた真田幸隆は長源寺に寄宿していて、ここで伝為晃運と出会いました。
天文16年(1547年)甲斐の武田晴信(信玄)に臣従して旧領の小県郡真田荘を回復すると、真田氏の本城・松尾城に伝為晃運を招き真田氏の菩提寺として長谷寺を創建しました。
幸隆が上野にいた6年の間に、伝為晃運との強い絆が結ばれたんでしょうね。

海野平の戦い
天文年間初頭、北信濃の村上義清と信濃を狙う甲斐の武田信虎が争いを繰り返す中、上野国の関東管領・山内上杉氏を後ろ盾とする海野棟綱、禰津元直・真田幸隆などの滋野一族が東信濃に勢力を保っていました。
天文10年(1541年)5月、村上義清は代々諏訪大社大祝も務める信濃諏訪郡の国人・諏訪頼重と縁戚関係を結んだ甲斐の武田信虎と同盟を結び、武田氏・諏訪氏と連携して滋野一族の支配下にあった小県郡に侵攻を開始しました。
村上氏との国境に位置する滋野一族惣領家海野氏配下・尾山氏の居城・尾野山城が村上・武田・諏訪の連合軍に攻められ落城すると、5月13日、滋野氏一族と村上氏は神川付近で野戦となりました。
数で圧倒する村上氏に抵抗を続ける滋野氏一族惣領家の海野棟綱は、嫡子・幸義を討取られるなどして敗北しました。
5月23日には海野氏が勢力を置いた小県郡海野庄近くに村上・武田・諏訪の連合軍が迫ったため、海野平で野戦に及びましたが25日に総崩れとなって敗北し、海野棟綱、真田幸隆、禰津元直の息子・政直は関東管領・上杉憲政を頼って上野国吾妻郡に落ち延びました。
禰津元直や幸隆の弟・矢沢頼綱は連合軍に降伏し武田信虎の配下となり、のちに禰津元直の娘は信虎の嫡男・晴信(信玄)の側室として輿入れし「禰津御寮人」と呼ばれていました。


「長國寺本堂の鯱」
本堂の鯱は松代藩の藩庁が置かれていた海津城から移設されたものだそうです。
鯱の土台となるところにあしらわれた真田六文銭がカッコいいですね(^_-)-☆


「長國寺本堂」
明治19年(1886年)に再建された本堂。


「放光殿」
放光殿の裏にある墓地には、松代藩6代藩主・真田幸弘の時代、家老として仕えていた恩田木工民親(おんだもくたみちか)のお墓もあります。
恩田民親は幸弘から財政再建のための藩政改革を任され、「正直」「倹約」を奨励し、強い意志を持って改革を推し進め、前任者が2度も失敗していた藩政改革を成し遂げた人物です。
民親の業績は「日暮硯」という書物にまとめられ、藩政改革のためのお手本としてその写本が武士のみならず庶民にまで広く愛読されていたそうです。


直書きで頂いた御朱印。
御朱印は本堂右側の庫院で頂けます。

有料となりますが真田信之をはじめとする真田氏代々の松代藩主の墓所も見学する事が出来ます。
真田家墓所には真田幸村(信繁)父子の供養碑が建立されています。
大正3年(1914年)に、真田氏11代当主・真田幸正氏によって建立されたそうです。
2022.07.15 21:47 | comment(0)
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御朱印集め初心者夫婦が自由気ままに御朱印巡りをしています。

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