懐古神社
武田信玄の天才軍師 山本勘助が縄張りしたと伝わる小諸城址に建立された「懐古神社」で直書きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「懐古神社 参道」
懐古神社は小諸城址本丸跡の一角に鎮座しています。
懐古神社の創建は明治13年(1881年)4月、小諸城跡を懐古園として整備した際に、旧小諸藩の有志によって、小諸藩を治めた牧野氏歴代藩主の御霊を、藩政時代より城内の鎮守神として祀られていた天満宮・火魂社と合祀して建立されました。

「懐古神社」
長野県小諸市丁本丸跡314


「鳥居」
参道を進むと石鳥居が建っていて、鳥居左側には池があり錦鯉が悠々と泳いでいました。


「懐古神社 社殿」
昭和62年(1987年)11月に改築されたものだそうです。


「鏡石」
社務所の手前には鏡石といわれる武田信玄の軍師・山本勘助が愛用していたと伝わる石があります。

山本勘助
武田の五名臣の一人にも数えられる伝説的天才軍師です。
歴史研究家からは存在が疑われていた「山本勘助」ですが、近年、歴史資料に「山本菅助」という武将の存在が確認され、実在していたのは間違いなさそうです。
勘助は明応2年(1493年)駿河国富士郡山本村の武士・山本(吉野)貞幸と妻・安の四男として生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣・大林勘左衛門の養子となったと伝わります。
天文5年(1536年)浪人だった勘助は、海道一の弓取りとも称された駿河国主・今川義元に仕官するため家老・庵原忠胤の屋敷に寄宿し、今川家重臣・朝比奈信置を通して仕官を志願しましたが、色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指も揃っていないという勘助の容貌を嫌った義元は召抱える事はなく、剣術で数回手柄を立てた時も流行の新当流ではなく京流だったため、認められる事はありませんでした。
天文12年(1543年)駿河国に優れた兵法家がいる事を聞きつけた武田家臣筆頭格・板垣信方は、主君・武田晴信(信玄)に勘助を推挙し、武田家は破格の条件の知行100貫で召し抱えると勘助に伝えました。
武田家の本拠・躑躅ヶ崎館に出仕した勘助は晴信と初めて対面しましたが、晴信は勘助の才能を見抜くと知行200貫で召し抱える事としました。
晴信が信濃国へ侵攻すると、勘助は様々な策を用いて活躍し、武田家の軍師にまで昇りつめました。
勘助には数々の伝説的エピソードがありますが、史実とは年代が違っていたり、負けた戦が勝ち戦になっていたり、信憑性には疑問が残りますが、信玄が側近に取り立てるほどの武将ですから策謀や知識が豊富だったのは間違いないと思います。
ちなみに、軍師と言われるようになったのは江戸時代になってからで、当時の資料には勘助が「軍師」との記録は一切ありません。
また、ヤマカンという当てずっぽうを意味する言葉は、山本勘助が由来の言葉です。
天文22年(1553年)武田家が北信濃に海津城を築きましたが、この城の縄張りは勘助が任されたもので、城主・春日虎綱(高坂昌信)は、海津城を「武略の粋が極められている」と称賛し、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれ、重臣・馬場信春も築城術を伝授されたそうです。
また、有名な分国法「甲州法度之次第」ですが、これを晴信に献策したのも勘助なんだそうです。
永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いで自身の献策した「啄木鳥の戦法」を上杉政虎(謙信)に見破られ、危険が迫った本陣を守るため、勘助は僅かな手勢で敵中に突撃して13騎を討取る働きをしましたが、猛将と名高い上杉家先鋒・柿崎景家の軍勢に囲まれると、四方八方から槍を突かれて落馬、柿崎配下の坂木磯八に討取られてしまいました。
勘助の首級は残った山本勢が柿崎勢から奪い返したそうです。


直書きで頂いた御朱印

+-小諸城-+

「小諸城大手門」(2011.07.11旦那撮影)

長享元年(1487年)小笠原氏一族の大井光忠によって築城された鍋蓋城、後に光忠の子・光為が築いた出城・乙女坂城が小諸城の発祥と伝わります。
天文22年(1553年)甲斐の武田信玄は信濃に侵攻すると鍋蓋城・乙女坂城など諸城を攻略、軍師・山本勘助に東信濃の拠点となる城の築城を命じました。
勘助は鍋蓋城・乙女坂城を縄張りに組み込んだ大規模な城郭の築城に着手し、天文23年(1554年)小諸城が完成すると、譜代家老・春日虎綱(高坂昌信)が城代となりました。
永禄3年(1560年)春日虎綱が越後上杉氏に対する最前線・海津城の守将を任されたため、後任として武田氏庶流の御一門衆・下曾根浄喜が小諸城代となりました。
天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により信濃侵攻が始まると、劣勢となった武田家では、当主・勝頼は譜代家老・小山田氏の岩殿城へ、信玄実弟・信繁の子・武田信豊は小諸城へ逃亡しました。
小諸城代だった下曾根浄喜は信豊を裏切って城内で討取ると、首級を信長に進上し降伏しましたが、信長は同じ一門衆を裏切った事を許さず、浄喜は誅殺されたそうです。
天目山で勝頼が自刃し武田氏が滅亡すると、信長より「関東御取次役」に任じられた織田家重臣の滝川一益が上野国と信濃小県郡・佐久郡を与えられ上野国厩橋城に入城し、小諸城には一益配下の道家正栄が佐久郡小諸2万石を託されて小諸城代となりました。
しかし同年6月2日、本能寺の変で信長が横死すると甲斐・信濃では武田家遺臣による国人一揆が起こり、信長から甲斐22万石と信濃諏訪郡を与えられていた織田家重臣の河尻秀隆が殺害され、甲斐・信濃に派遣されていた織田家臣は織田領へ逃亡しました。
空白地となった武田家遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、相模の北条氏直は4万の大軍を率いて一益の支配地となっていた上野侵攻を開始しました。
一益は神流川の戦いで北条氏直に敗れると上野・信濃を放棄し、碓氷峠から小諸城を経て本領である伊勢長島城に逃亡しました。
北条軍は信濃に進撃して佐久・小県郡を支配下に治めると、さらに諏訪へ侵入、叔母・真竜院の嫁ぎ先である木曾義昌とも協力して信濃中央部の攻略に成功しましたが、8月には甲斐に侵攻してきた徳川家康軍と甲斐・若神子において対陣しました。
この間、北条方の真田昌幸が離反し武田旧臣で徳川方の依田信蕃とともに東信濃において北条軍の補給線を寸断、さらには甲斐黒駒で別働隊の北条氏忠が徳川方の平岩親吉に敗北するなど戦況は悪化し、10月には織田信雄・信孝の調停によって徳川軍との和睦を受け入れました。
上野は北条家、甲斐信濃は徳川家の領有となり北条軍は甲斐信濃から撤退、天正11年(1583年)8月には徳川家康の娘・督姫が氏直に輿入れする事となり、徳川・北条の同盟が成立し両家は縁戚関係となりました。
小諸城には家康より松平姓を許された依田信藩の嫡男・松平康国が6万石で入城しました。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐により北条家が滅亡、戦後、徳川家康が関東に移封されると小諸城には秀吉の家臣・仙石秀久が5万石で入封しました。
慶長8年(1603年)徳川家康が江戸幕府を開き幕藩体制を開始、小諸藩の藩祖となった仙石秀久は小諸城の大改修や城下町の整備を進めました。
元和8年(1622年)小諸藩2代藩主・仙石忠政は信濃上田藩6万石へ加増移封となり小諸藩は廃藩、第2代将軍・徳川秀忠の3男・徳川忠長の甲府藩領となると、小諸城代は屋代秀正・三枝昌吉・依田守直らが務めたそうです。
寛永元年(1624年)松平憲良が美濃大垣藩より5万石で入封し小諸藩が復活、その後は青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、松平乗政、松平乗紀と藩主が代わり、元禄15年(1702年)に牧野康重が入封後は10代藩主・康済に至るまでの169年間、牧野氏の居城となりました。


「小諸城三之門」(2011.07.11旦那撮影)
懐古園入口となる小諸城三之門です。
門をくぐって中に入ると、懐古園の入園券が売っていますので、神社参拝や園内散策のみの方は300円を払って券を購入します。
500円の入園券を購入すると小諸市動物園や小諸市児童遊園地にも入る事が出来ますので、小さいお子様連れの方はお子様が喜ぶと思います。

この三之門は元和元年(1615年)初代小諸藩主・仙石秀久によって小諸城が近世城郭へと大改修された時に設けられましたが、寛保2年(1742年)8月1日に千曲川流域で起きた未曾有の大水害で流失してしまったため、明和3年(1766年)に小諸藩牧野氏3代藩主・ 牧野康満によって再建されました。
ちなみに、徳川宗家16代当主・徳川家達の筆による「懐古園」の扁額が掲げられている三之門は国指定重要文化財ですが、所有者は懐古神社となっています。


「小諸城 天守台石垣」(2011.07.11旦那撮影)
小諸城には仙石秀久が大改修した時に桐紋の金箔押瓦が用いられた三重天守が建てられましたが、寛永3年(1626年)に落雷によって焼失してしまいました。


「大河ドラマ 風林火山とコラボした城址案内板」 (2011.07.11旦那撮影)
小諸城の縄張りは武田信玄の軍師・山本勘助によるものだといわれています。
2011年7月に行った時には勘助ゆかりの城跡という事で、2007年にNHKで放送された内野聖陽さん主演の大河ドラマ「風林火山」で、信玄の実弟・信繁役を演じた嘉島典俊さんの書による小諸城の案内板が設置されていました。
2022.08.19 23:02 | comment(0)
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