小諸鹿嶋神社
豊臣秀吉最古参の家臣 「無」の旗印を掲げる小諸城主 仙石秀久も崇敬した「小諸鹿嶋神社」で書置きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

小諸鹿嶋神社の創建時期などは不明です。
境内には7~8世紀ころの古墳があったそうで、歴史は相当古い神社という事は間違いなさそうです。
天正18年(1590年)豊臣秀吉から小諸領5万石を与えられ小諸城主となった仙石秀久が徳川幕府より初代小諸藩主に任じられると、小諸城の大改修を行った際に小諸城の鎮守社として社殿の造営を行なったそうです。

「小諸鹿嶋神社」
長野県小諸市古城雉子原丁221-2


小諸城大手門付近に鎮座していた鹿嶋神社でしたが、昭和24年(1949年)に小諸駅周辺の区画整備により現在の場所に遷座されました。


「社殿」
小諸鹿嶋神社は無人社なので、宮司さんに神社の詳細をお聞きする事が出来ませんでした。
初代小諸藩主・仙石秀久は当時、鹿嶋郭と呼ばれていた大手門近くの鹿嶋神社の社殿を造営しました。
鹿嶋神社は歴代の小諸藩主から崇敬を受け、手厚く保護されたそうです。

仙石秀久
仙石家は藤原北家魚名流・藤原利仁を家祖としていましたが、清和源氏の名門一族・土岐氏の血統であった親族・仙石久重が仙石家当主・仙石基秀の娘を妻に迎えて家督を継ぐと、土岐源氏支流として源氏を称するようになりました。
仙石家は美濃の守護大名・土岐氏の家臣でしたが、土岐氏を追放し美濃の国主となった斉藤道三に仕えるようになりました。
秀久は天文21年(1552年)1月26日、斉藤家臣・仙石治兵衛久盛の四男として生まれましたが、家督を相続する権利がなかったために誼を通じていた越前の豪族・萩原国満に養子として出されました。
永禄年間、尾張の織田信長が台頭し、美濃国主となっていた道三の孫・斎藤龍興との争いが激化する中で、仙石家の嫡男が討死すると父・久盛から呼び戻されて仙石家の家督を相続しました。
永禄10年(1567年)斉藤家の有力家臣だった西美濃三人衆の稲葉良通(一鉄)・安藤守就(道足)・氏家直元(卜全)が龍興を見限って信長に内応し、斉藤氏の本拠・稲葉山城が落城すると、主君・斎藤龍興が伊勢・長島へと落ち延びたため、14歳だった秀久は助命され、信長の家臣・木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)の与力武将として織田家に取り立てられました。
秀久は秀吉の馬廻衆を務め各地を転戦していましたが、元亀元年(1570年)織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と争った姉川の戦いで、浅井方の山崎新平を討ち取る武功を挙げると、天正2年(1574年)秀吉から近江国野洲郡に千石の所領を与えられました。
秀吉の中国攻めにも参陣し活躍すると、天正6年(1578年)には4千石を加増され、翌年、摂津国茶臼山城を与えられました。
天正9年(1581年)秀吉の軍師・黒田孝高らと淡路島に渡り、毛利方の菅達長が守る岩屋城・由良城を陥落させました。
天正10年(1582年)6月3日、主君・織田信長が本能寺で明智光秀の謀反により横死したとの情報を得た秀吉は、対峙していた毛利家と和睦を結ぶと、秀吉軍は光秀を討つために畿内へ急行しました。
秀久は淡路で明智光秀に与した豪族の討伐を任され、明智方の豪族を打ち破り淡路平定に貢献しました。
天正11年(1583年)3月から秀吉が織田家筆頭家老・柴田勝家と争った賤ヶ岳の戦いで、秀久は四国の抑えとして淡路に入ると、菅達長を破ったのち小豆島を占領、秀吉方の十河存保を救援するために四国へ渡り讃岐国引田城に入りました。
4月21日、柴田方の長宗我部家臣・香川信景の部隊が引田城近くまで進軍してきたため、秀久は伏兵を配して迎撃し、緒戦は優勢でしたが、兵力で勝る香川隊が態勢を立て直すと徐々に押され、駆けつけた長宗我部の援軍の攻撃によって引田城へ撤退しました。
翌日、長宗我部軍に囲まれた引田城は総攻撃を受けると落城し秀久は敗走しましたが、この合戦中に幟を長宗我部勢に取られるという大失態を犯してしまったそうです。
敗戦後、淡路島と小豆島の守備を固め、瀬戸内の制海権を維持することに成功して四国勢を牽制しました。
秀久は淡路平定の軍功によって淡路国5万石を与えられ大名となり、淡路国津名郡の洲本城に入城しました。
洲本城主となった秀久は、淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括して、紀州征伐では湯川一族討伐で戦功を挙げました。
秀吉本隊による四国討伐の際には喜岡城を攻略、木津城攻めでは城内の水源を絶つなど活躍しました。
天正13年(1585年)四国攻めの軍功によって讃岐1国(2万石は十河氏領)を与えられるまでに出世しました。
天正14年(1586年)9月、豊後の大名・大友宗麟(義鎮)からの求めに応じ、関白となっていた秀吉は九州の島津家討伐を決定し、劣勢にあった大友氏の救援のため、軍監に秀久を任じて長宗我部元親、十河存保らの四国勢を豊後に派遣、大友勢に加勢させました。
12月12日、豊後府内城に駐留していた秀久は、豊後に留まり、持久戦に徹するよう秀吉から書状を受け取っていましたが、島津家久の軍勢に攻められた豊後鶴賀城では、城主で大友家の重臣・利光宗魚が討死し、島津家久・島津義弘の軍勢に府内城が挟撃される危機が迫り焦った秀久は、家久の軍を食い止めるために四国勢6千の兵を戸次川に進め、家久が指揮を執る島津軍1万と戦となりました。
島津軍は部隊を三隊に分けて、二隊を敵陣の左右に伏兵として配し、味方の陣中深く進撃してきたところを三方向から囲んで殲滅するという島津軍得意の「釣り野伏せ」という策で臨み、島津勢に攻めかかる秀久の部隊に壊滅的な損害を与えると、豊臣軍第二陣の長宗我部信親隊と十河存保隊も総崩れとなり、信親・存保は討死してしまいました。
軍監役である秀久も敗残兵を取りまとめる責務を放棄して小倉城へと逃亡してしまったため、第三陣に置いていた長宗我部元親隊は戦いに参加する余地もなく伊予国へ敗走する羽目となり、豊臣軍は島津軍の前に大敗北を喫してしまいました。
戸次川の戦いといわれるこの敗戦の責により、秀久は所領を没収され高野山に追放処分となりました。
天正18年(1590年)秀久は秀吉による小田原征伐の際に、三男・忠政と20名の旧臣、美濃で集めた浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じ、秀吉の盟友・徳川家康の取り成しを受けて参陣が許されました。
秀久は「糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織、紺地に無の字を白く出した馬印を真先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだ」といわれています。
さらには、敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけ「鈴鳴り武者」の異名をとったという逸話もあります。
十文字槍を振るい奮戦した秀久は、伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという武功を挙げ、この時の活躍によって「箱根にある仙石原は、秀久の武勇に由来する」という話まで伝わっています。
北条家滅亡後、戦功が認められ赦免された秀久は、秀吉に金の団扇を下賜され、信濃国小諸5万石を与えられ小諸城主となりました。
文禄元年(1592年)朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任、文禄3年(1594年)伏見城築城工事でも功績を認められ、7千石を加増されました。
築城に関わった伏見城では大盗賊・石川五右衛門を捕縛して、秀吉から五右衛門が盗もうとした「千鳥の香炉」を褒美として拝領したとの伝承があります。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは懇意にしていた徳川方の東軍に与し、中山道の鎮圧を家康から任された徳川秀忠が信濃に入った際には単騎で出迎えたそうです。
上田城の真田攻めの本陣を小諸に定めた秀忠の軍に参陣し、第二次上田合戦で真田昌幸に秀忠軍が足止めされると、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の元に向かう様に進言し、関ヶ原に遅参して家康の勘気をかった秀忠の執り成しも務めるなど、外様大名ながら秀忠を補佐して信頼され、秀忠が家康の後継者として征夷大将軍となると、徳川幕府から重用されるようになりました。
※第二次上田合戦の詳細は眞田神社に書いています。
幕府から本領安堵された秀久は、初代小諸藩主として領内の整備や小諸城の大改修に着手し、大手門や黒門、二の丸を増築して、小諸城を近代城郭として完成させました。
慶長13年(1608年)の冬には、秀忠が直々に江戸の秀久邸を訪れるほど幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の外様大名では異例の厚遇で、秀忠付という名誉職を賜っています。
秀久が江戸に参府する際には道中の妻子同伴が許され、幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたそうです。
慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されています。
慶長19年(1614年)江戸から小諸への帰途に病にかかり、武州鴻巣にて5月6日に死去しました。


書置きで頂いた御朱印。
御朱印はお賽銭箱の横にあります。
初穂料500円はお賽銭箱に入れて下さい。


「そば蔵 丁子庵」
今回の御朱印巡りの最後に小諸で絶対に食べたかったお蕎麦屋さんに寄りました。
鹿嶋神社から車で5分くらいのところにあります。
テレビでも紹介されるほど小諸では有名なお店で、コロナ前は行列ができる事もあったそうです。


写真では明るい感じになってしまってますが、店内は暗めの照明効果もあって、レトロな雰囲気の漂うとても落ち着いた感じの店内です。
店内にはレトロな小物などが展示されていて、丁子庵さんを訪れた芸能人のサインも飾られていました。


「天ざる辛味大根おろしそば(大盛)」
少々お値段は張りますが、茄子の天婦羅はお味噌が挟んであって最高でした。
お蕎麦はのど越しもよく蕎麦粉の香りがしっかりとして、本当においしかったです。
大盛を注文したのは旦那です、私は普通盛でした(;・∀・)
2022.08.20 23:15 | comment(0)
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