小諸鹿嶋神社
豊臣秀吉最古参の家臣 「無」の旗印を掲げる小諸城主 仙石秀久も崇敬した「小諸鹿嶋神社」で書置きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝
小諸鹿嶋神社の創建時期などは不明です。
境内には7~8世紀ころの古墳があったそうで、歴史は相当古い神社という事は間違いなさそうです。
天正18年(1590年)豊臣秀吉から小諸領5万石を与えられ小諸城主となった仙石秀久が徳川幕府より初代小諸藩主に任じられると、小諸城の大改修を行った際に小諸城の鎮守社として社殿の造営を行なったそうです。
「小諸鹿嶋神社」
長野県小諸市古城雉子原丁221-2
小諸城大手門付近に鎮座していた鹿嶋神社でしたが、昭和24年(1949年)に小諸駅周辺の区画整備により現在の場所に遷座されました。
「社殿」
小諸鹿嶋神社は無人社なので、宮司さんに神社の詳細をお聞きする事が出来ませんでした。
初代小諸藩主・仙石秀久は当時、鹿嶋郭と呼ばれていた大手門近くの鹿嶋神社の社殿を造営しました。
鹿嶋神社は歴代の小諸藩主から崇敬を受け、手厚く保護されたそうです。
仙石秀久
仙石家は藤原北家魚名流・藤原利仁を家祖としていましたが、清和源氏の名門一族・土岐氏の血統であった親族・仙石久重が仙石家当主・仙石基秀の娘を妻に迎えて家督を継ぐと、土岐源氏支流として源氏を称するようになりました。
仙石家は美濃の守護大名・土岐氏の家臣でしたが、土岐氏を追放し美濃の国主となった斉藤道三に仕えるようになりました。
秀久は天文21年(1552年)1月26日、斉藤家臣・仙石治兵衛久盛の四男として生まれましたが、家督を相続する権利がなかったために誼を通じていた越前の豪族・萩原国満に養子として出されました。
永禄年間、尾張の織田信長が台頭し、美濃国主となっていた道三の孫・斎藤龍興との争いが激化する中で、仙石家の嫡男が討死すると父・久盛から呼び戻されて仙石家の家督を相続しました。
永禄10年(1567年)斉藤家の有力家臣だった西美濃三人衆の稲葉良通(一鉄)・安藤守就(道足)・氏家直元(卜全)が龍興を見限って信長に内応し、斉藤氏の本拠・稲葉山城が落城すると、主君・斎藤龍興が伊勢・長島へと落ち延びたため、14歳だった秀久は助命され、信長の家臣・木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)の与力武将として織田家に取り立てられました。
秀久は秀吉の馬廻衆を務め各地を転戦していましたが、元亀元年(1570年)織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と争った姉川の戦いで、浅井方の山崎新平を討ち取る武功を挙げると、天正2年(1574年)秀吉から近江国野洲郡に千石の所領を与えられました。
秀吉の中国攻めにも参陣し活躍すると、天正6年(1578年)には4千石を加増され、翌年、摂津国茶臼山城を与えられました。
天正9年(1581年)秀吉の軍師・黒田孝高らと淡路島に渡り、毛利方の菅達長が守る岩屋城・由良城を陥落させました。
天正10年(1582年)6月3日、主君・織田信長が本能寺で明智光秀の謀反により横死したとの情報を得た秀吉は、対峙していた毛利家と和睦を結ぶと、秀吉軍は光秀を討つために畿内へ急行しました。
秀久は淡路で明智光秀に与した豪族の討伐を任され、明智方の豪族を打ち破り淡路平定に貢献しました。
天正11年(1583年)3月から秀吉が織田家筆頭家老・柴田勝家と争った賤ヶ岳の戦いで、秀久は四国の抑えとして淡路に入ると、菅達長を破ったのち小豆島を占領、秀吉方の十河存保を救援するために四国へ渡り讃岐国引田城に入りました。
4月21日、柴田方の長宗我部家臣・香川信景の部隊が引田城近くまで進軍してきたため、秀久は伏兵を配して迎撃し、緒戦は優勢でしたが、兵力で勝る香川隊が態勢を立て直すと徐々に押され、駆けつけた長宗我部の援軍の攻撃によって引田城へ撤退しました。
翌日、長宗我部軍に囲まれた引田城は総攻撃を受けると落城し秀久は敗走しましたが、この合戦中に幟を長宗我部勢に取られるという大失態を犯してしまったそうです。
敗戦後、淡路島と小豆島の守備を固め、瀬戸内の制海権を維持することに成功して四国勢を牽制しました。
秀久は淡路平定の軍功によって淡路国5万石を与えられ大名となり、淡路国津名郡の洲本城に入城しました。
洲本城主となった秀久は、淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括して、紀州征伐では湯川一族討伐で戦功を挙げました。
秀吉本隊による四国討伐の際には喜岡城を攻略、木津城攻めでは城内の水源を絶つなど活躍しました。
天正13年(1585年)四国攻めの軍功によって讃岐1国(2万石は十河氏領)を与えられるまでに出世しました。
天正14年(1586年)9月、豊後の大名・大友宗麟(義鎮)からの求めに応じ、関白となっていた秀吉は九州の島津家討伐を決定し、劣勢にあった大友氏の救援のため、軍監に秀久を任じて長宗我部元親、十河存保らの四国勢を豊後に派遣、大友勢に加勢させました。
12月12日、豊後府内城に駐留していた秀久は、豊後に留まり、持久戦に徹するよう秀吉から書状を受け取っていましたが、島津家久の軍勢に攻められた豊後鶴賀城では、城主で大友家の重臣・利光宗魚が討死し、島津家久・島津義弘の軍勢に府内城が挟撃される危機が迫り焦った秀久は、家久の軍を食い止めるために四国勢6千の兵を戸次川に進め、家久が指揮を執る島津軍1万と戦となりました。
島津軍は部隊を三隊に分けて、二隊を敵陣の左右に伏兵として配し、味方の陣中深く進撃してきたところを三方向から囲んで殲滅するという島津軍得意の「釣り野伏せ」という策で臨み、島津勢に攻めかかる秀久の部隊に壊滅的な損害を与えると、豊臣軍第二陣の長宗我部信親隊と十河存保隊も総崩れとなり、信親・存保は討死してしまいました。
軍監役である秀久も敗残兵を取りまとめる責務を放棄して小倉城へと逃亡してしまったため、第三陣に置いていた長宗我部元親隊は戦いに参加する余地もなく伊予国へ敗走する羽目となり、豊臣軍は島津軍の前に大敗北を喫してしまいました。
戸次川の戦いといわれるこの敗戦の責により、秀久は所領を没収され高野山に追放処分となりました。
天正18年(1590年)秀久は秀吉による小田原征伐の際に、三男・忠政と20名の旧臣、美濃で集めた浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じ、秀吉の盟友・徳川家康の取り成しを受けて参陣が許されました。
秀久は「糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織、紺地に無の字を白く出した馬印を真先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだ」といわれています。
さらには、敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけ「鈴鳴り武者」の異名をとったという逸話もあります。
十文字槍を振るい奮戦した秀久は、伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという武功を挙げ、この時の活躍によって「箱根にある仙石原は、秀久の武勇に由来する」という話まで伝わっています。
北条家滅亡後、戦功が認められ赦免された秀久は、秀吉に金の団扇を下賜され、信濃国小諸5万石を与えられ小諸城主となりました。
文禄元年(1592年)朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任、文禄3年(1594年)伏見城築城工事でも功績を認められ、7千石を加増されました。
築城に関わった伏見城では大盗賊・石川五右衛門を捕縛して、秀吉から五右衛門が盗もうとした「千鳥の香炉」を褒美として拝領したとの伝承があります。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは懇意にしていた徳川方の東軍に与し、中山道の鎮圧を家康から任された徳川秀忠が信濃に入った際には単騎で出迎えたそうです。
上田城の真田攻めの本陣を小諸に定めた秀忠の軍に参陣し、第二次上田合戦で真田昌幸に秀忠軍が足止めされると、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の元に向かう様に進言し、関ヶ原に遅参して家康の勘気をかった秀忠の執り成しも務めるなど、外様大名ながら秀忠を補佐して信頼され、秀忠が家康の後継者として征夷大将軍となると、徳川幕府から重用されるようになりました。
※第二次上田合戦の詳細は眞田神社に書いています。
幕府から本領安堵された秀久は、初代小諸藩主として領内の整備や小諸城の大改修に着手し、大手門や黒門、二の丸を増築して、小諸城を近代城郭として完成させました。
慶長13年(1608年)の冬には、秀忠が直々に江戸の秀久邸を訪れるほど幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の外様大名では異例の厚遇で、秀忠付という名誉職を賜っています。
秀久が江戸に参府する際には道中の妻子同伴が許され、幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたそうです。
慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されています。
慶長19年(1614年)江戸から小諸への帰途に病にかかり、武州鴻巣にて5月6日に死去しました。
書置きで頂いた御朱印。
御朱印はお賽銭箱の横にあります。
初穂料500円はお賽銭箱に入れて下さい。
「そば蔵 丁子庵」
今回の御朱印巡りの最後に小諸で絶対に食べたかったお蕎麦屋さんに寄りました。
鹿嶋神社から車で5分くらいのところにあります。
テレビでも紹介されるほど小諸では有名なお店で、コロナ前は行列ができる事もあったそうです。
写真では明るい感じになってしまってますが、店内は暗めの照明効果もあって、レトロな雰囲気の漂うとても落ち着いた感じの店内です。
店内にはレトロな小物などが展示されていて、丁子庵さんを訪れた芸能人のサインも飾られていました。
「天ざる辛味大根おろしそば(大盛)」
少々お値段は張りますが、茄子の天婦羅はお味噌が挟んであって最高でした。
お蕎麦はのど越しもよく蕎麦粉の香りがしっかりとして、本当においしかったです。
大盛を注文したのは旦那です、私は普通盛でした(;・∀・)
2022.06.09参拝
小諸鹿嶋神社の創建時期などは不明です。
境内には7~8世紀ころの古墳があったそうで、歴史は相当古い神社という事は間違いなさそうです。
天正18年(1590年)豊臣秀吉から小諸領5万石を与えられ小諸城主となった仙石秀久が徳川幕府より初代小諸藩主に任じられると、小諸城の大改修を行った際に小諸城の鎮守社として社殿の造営を行なったそうです。
「小諸鹿嶋神社」
長野県小諸市古城雉子原丁221-2
小諸城大手門付近に鎮座していた鹿嶋神社でしたが、昭和24年(1949年)に小諸駅周辺の区画整備により現在の場所に遷座されました。
「社殿」
小諸鹿嶋神社は無人社なので、宮司さんに神社の詳細をお聞きする事が出来ませんでした。
初代小諸藩主・仙石秀久は当時、鹿嶋郭と呼ばれていた大手門近くの鹿嶋神社の社殿を造営しました。
鹿嶋神社は歴代の小諸藩主から崇敬を受け、手厚く保護されたそうです。
仙石秀久
仙石家は藤原北家魚名流・藤原利仁を家祖としていましたが、清和源氏の名門一族・土岐氏の血統であった親族・仙石久重が仙石家当主・仙石基秀の娘を妻に迎えて家督を継ぐと、土岐源氏支流として源氏を称するようになりました。
仙石家は美濃の守護大名・土岐氏の家臣でしたが、土岐氏を追放し美濃の国主となった斉藤道三に仕えるようになりました。
秀久は天文21年(1552年)1月26日、斉藤家臣・仙石治兵衛久盛の四男として生まれましたが、家督を相続する権利がなかったために誼を通じていた越前の豪族・萩原国満に養子として出されました。
永禄年間、尾張の織田信長が台頭し、美濃国主となっていた道三の孫・斎藤龍興との争いが激化する中で、仙石家の嫡男が討死すると父・久盛から呼び戻されて仙石家の家督を相続しました。
永禄10年(1567年)斉藤家の有力家臣だった西美濃三人衆の稲葉良通(一鉄)・安藤守就(道足)・氏家直元(卜全)が龍興を見限って信長に内応し、斉藤氏の本拠・稲葉山城が落城すると、主君・斎藤龍興が伊勢・長島へと落ち延びたため、14歳だった秀久は助命され、信長の家臣・木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)の与力武将として織田家に取り立てられました。
秀久は秀吉の馬廻衆を務め各地を転戦していましたが、元亀元年(1570年)織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と争った姉川の戦いで、浅井方の山崎新平を討ち取る武功を挙げると、天正2年(1574年)秀吉から近江国野洲郡に千石の所領を与えられました。
秀吉の中国攻めにも参陣し活躍すると、天正6年(1578年)には4千石を加増され、翌年、摂津国茶臼山城を与えられました。
天正9年(1581年)秀吉の軍師・黒田孝高らと淡路島に渡り、毛利方の菅達長が守る岩屋城・由良城を陥落させました。
天正10年(1582年)6月3日、主君・織田信長が本能寺で明智光秀の謀反により横死したとの情報を得た秀吉は、対峙していた毛利家と和睦を結ぶと、秀吉軍は光秀を討つために畿内へ急行しました。
秀久は淡路で明智光秀に与した豪族の討伐を任され、明智方の豪族を打ち破り淡路平定に貢献しました。
天正11年(1583年)3月から秀吉が織田家筆頭家老・柴田勝家と争った賤ヶ岳の戦いで、秀久は四国の抑えとして淡路に入ると、菅達長を破ったのち小豆島を占領、秀吉方の十河存保を救援するために四国へ渡り讃岐国引田城に入りました。
4月21日、柴田方の長宗我部家臣・香川信景の部隊が引田城近くまで進軍してきたため、秀久は伏兵を配して迎撃し、緒戦は優勢でしたが、兵力で勝る香川隊が態勢を立て直すと徐々に押され、駆けつけた長宗我部の援軍の攻撃によって引田城へ撤退しました。
翌日、長宗我部軍に囲まれた引田城は総攻撃を受けると落城し秀久は敗走しましたが、この合戦中に幟を長宗我部勢に取られるという大失態を犯してしまったそうです。
敗戦後、淡路島と小豆島の守備を固め、瀬戸内の制海権を維持することに成功して四国勢を牽制しました。
秀久は淡路平定の軍功によって淡路国5万石を与えられ大名となり、淡路国津名郡の洲本城に入城しました。
洲本城主となった秀久は、淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括して、紀州征伐では湯川一族討伐で戦功を挙げました。
秀吉本隊による四国討伐の際には喜岡城を攻略、木津城攻めでは城内の水源を絶つなど活躍しました。
天正13年(1585年)四国攻めの軍功によって讃岐1国(2万石は十河氏領)を与えられるまでに出世しました。
天正14年(1586年)9月、豊後の大名・大友宗麟(義鎮)からの求めに応じ、関白となっていた秀吉は九州の島津家討伐を決定し、劣勢にあった大友氏の救援のため、軍監に秀久を任じて長宗我部元親、十河存保らの四国勢を豊後に派遣、大友勢に加勢させました。
12月12日、豊後府内城に駐留していた秀久は、豊後に留まり、持久戦に徹するよう秀吉から書状を受け取っていましたが、島津家久の軍勢に攻められた豊後鶴賀城では、城主で大友家の重臣・利光宗魚が討死し、島津家久・島津義弘の軍勢に府内城が挟撃される危機が迫り焦った秀久は、家久の軍を食い止めるために四国勢6千の兵を戸次川に進め、家久が指揮を執る島津軍1万と戦となりました。
島津軍は部隊を三隊に分けて、二隊を敵陣の左右に伏兵として配し、味方の陣中深く進撃してきたところを三方向から囲んで殲滅するという島津軍得意の「釣り野伏せ」という策で臨み、島津勢に攻めかかる秀久の部隊に壊滅的な損害を与えると、豊臣軍第二陣の長宗我部信親隊と十河存保隊も総崩れとなり、信親・存保は討死してしまいました。
軍監役である秀久も敗残兵を取りまとめる責務を放棄して小倉城へと逃亡してしまったため、第三陣に置いていた長宗我部元親隊は戦いに参加する余地もなく伊予国へ敗走する羽目となり、豊臣軍は島津軍の前に大敗北を喫してしまいました。
戸次川の戦いといわれるこの敗戦の責により、秀久は所領を没収され高野山に追放処分となりました。
天正18年(1590年)秀久は秀吉による小田原征伐の際に、三男・忠政と20名の旧臣、美濃で集めた浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じ、秀吉の盟友・徳川家康の取り成しを受けて参陣が許されました。
秀久は「糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織、紺地に無の字を白く出した馬印を真先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだ」といわれています。
さらには、敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけ「鈴鳴り武者」の異名をとったという逸話もあります。
十文字槍を振るい奮戦した秀久は、伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという武功を挙げ、この時の活躍によって「箱根にある仙石原は、秀久の武勇に由来する」という話まで伝わっています。
北条家滅亡後、戦功が認められ赦免された秀久は、秀吉に金の団扇を下賜され、信濃国小諸5万石を与えられ小諸城主となりました。
文禄元年(1592年)朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任、文禄3年(1594年)伏見城築城工事でも功績を認められ、7千石を加増されました。
築城に関わった伏見城では大盗賊・石川五右衛門を捕縛して、秀吉から五右衛門が盗もうとした「千鳥の香炉」を褒美として拝領したとの伝承があります。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは懇意にしていた徳川方の東軍に与し、中山道の鎮圧を家康から任された徳川秀忠が信濃に入った際には単騎で出迎えたそうです。
上田城の真田攻めの本陣を小諸に定めた秀忠の軍に参陣し、第二次上田合戦で真田昌幸に秀忠軍が足止めされると、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の元に向かう様に進言し、関ヶ原に遅参して家康の勘気をかった秀忠の執り成しも務めるなど、外様大名ながら秀忠を補佐して信頼され、秀忠が家康の後継者として征夷大将軍となると、徳川幕府から重用されるようになりました。
※第二次上田合戦の詳細は眞田神社に書いています。
幕府から本領安堵された秀久は、初代小諸藩主として領内の整備や小諸城の大改修に着手し、大手門や黒門、二の丸を増築して、小諸城を近代城郭として完成させました。
慶長13年(1608年)の冬には、秀忠が直々に江戸の秀久邸を訪れるほど幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の外様大名では異例の厚遇で、秀忠付という名誉職を賜っています。
秀久が江戸に参府する際には道中の妻子同伴が許され、幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたそうです。
慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されています。
慶長19年(1614年)江戸から小諸への帰途に病にかかり、武州鴻巣にて5月6日に死去しました。
書置きで頂いた御朱印。
御朱印はお賽銭箱の横にあります。
初穂料500円はお賽銭箱に入れて下さい。
「そば蔵 丁子庵」
今回の御朱印巡りの最後に小諸で絶対に食べたかったお蕎麦屋さんに寄りました。
鹿嶋神社から車で5分くらいのところにあります。
テレビでも紹介されるほど小諸では有名なお店で、コロナ前は行列ができる事もあったそうです。
写真では明るい感じになってしまってますが、店内は暗めの照明効果もあって、レトロな雰囲気の漂うとても落ち着いた感じの店内です。
店内にはレトロな小物などが展示されていて、丁子庵さんを訪れた芸能人のサインも飾られていました。
「天ざる辛味大根おろしそば(大盛)」
少々お値段は張りますが、茄子の天婦羅はお味噌が挟んであって最高でした。
お蕎麦はのど越しもよく蕎麦粉の香りがしっかりとして、本当においしかったです。
大盛を注文したのは旦那です、私は普通盛でした(;・∀・)
2022.08.20 23:15 | comment(0)
懐古神社
武田信玄の天才軍師 山本勘助が縄張りしたと伝わる小諸城址に建立された「懐古神社」で直書きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝
「懐古神社 参道」
懐古神社は小諸城址本丸跡の一角に鎮座しています。
懐古神社の創建は明治13年(1881年)4月、小諸城跡を懐古園として整備した際に、旧小諸藩の有志によって、小諸藩を治めた牧野氏歴代藩主の御霊を、藩政時代より城内の鎮守神として祀られていた天満宮・火魂社と合祀して建立されました。
「懐古神社」
長野県小諸市丁本丸跡314
「鳥居」
参道を進むと石鳥居が建っていて、鳥居左側には池があり錦鯉が悠々と泳いでいました。
「懐古神社 社殿」
昭和62年(1987年)11月に改築されたものだそうです。
「鏡石」
社務所の手前には鏡石といわれる武田信玄の軍師・山本勘助が愛用していたと伝わる石があります。
山本勘助
武田の五名臣の一人にも数えられる伝説的天才軍師です。
歴史研究家からは存在が疑われていた「山本勘助」ですが、近年、歴史資料に「山本菅助」という武将の存在が確認され、実在していたのは間違いなさそうです。
勘助は明応2年(1493年)駿河国富士郡山本村の武士・山本(吉野)貞幸と妻・安の四男として生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣・大林勘左衛門の養子となったと伝わります。
天文5年(1536年)浪人だった勘助は、海道一の弓取りとも称された駿河国主・今川義元に仕官するため家老・庵原忠胤の屋敷に寄宿し、今川家重臣・朝比奈信置を通して仕官を志願しましたが、色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指も揃っていないという勘助の容貌を嫌った義元は召抱える事はなく、剣術で数回手柄を立てた時も流行の新当流ではなく京流だったため、認められる事はありませんでした。
天文12年(1543年)駿河国に優れた兵法家がいる事を聞きつけた武田家臣筆頭格・板垣信方は、主君・武田晴信(信玄)に勘助を推挙し、武田家は破格の条件の知行100貫で召し抱えると勘助に伝えました。
武田家の本拠・躑躅ヶ崎館に出仕した勘助は晴信と初めて対面しましたが、晴信は勘助の才能を見抜くと知行200貫で召し抱える事としました。
晴信が信濃国へ侵攻すると、勘助は様々な策を用いて活躍し、武田家の軍師にまで昇りつめました。
勘助には数々の伝説的エピソードがありますが、史実とは年代が違っていたり、負けた戦が勝ち戦になっていたり、信憑性には疑問が残りますが、信玄が側近に取り立てるほどの武将ですから策謀や知識が豊富だったのは間違いないと思います。
ちなみに、軍師と言われるようになったのは江戸時代になってからで、当時の資料には勘助が「軍師」との記録は一切ありません。
また、ヤマカンという当てずっぽうを意味する言葉は、山本勘助が由来の言葉です。
天文22年(1553年)武田家が北信濃に海津城を築きましたが、この城の縄張りは勘助が任されたもので、城主・春日虎綱(高坂昌信)は、海津城を「武略の粋が極められている」と称賛し、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれ、重臣・馬場信春も築城術を伝授されたそうです。
また、有名な分国法「甲州法度之次第」ですが、これを晴信に献策したのも勘助なんだそうです。
永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いで自身の献策した「啄木鳥の戦法」を上杉政虎(謙信)に見破られ、危険が迫った本陣を守るため、勘助は僅かな手勢で敵中に突撃して13騎を討取る働きをしましたが、猛将と名高い上杉家先鋒・柿崎景家の軍勢に囲まれると、四方八方から槍を突かれて落馬、柿崎配下の坂木磯八に討取られてしまいました。
勘助の首級は残った山本勢が柿崎勢から奪い返したそうです。
直書きで頂いた御朱印
+-小諸城-+
「小諸城大手門」(2011.07.11旦那撮影)
長享元年(1487年)小笠原氏一族の大井光忠によって築城された鍋蓋城、後に光忠の子・光為が築いた出城・乙女坂城が小諸城の発祥と伝わります。
天文22年(1553年)甲斐の武田信玄は信濃に侵攻すると鍋蓋城・乙女坂城など諸城を攻略、軍師・山本勘助に東信濃の拠点となる城の築城を命じました。
勘助は鍋蓋城・乙女坂城を縄張りに組み込んだ大規模な城郭の築城に着手し、天文23年(1554年)小諸城が完成すると、譜代家老・春日虎綱(高坂昌信)が城代となりました。
永禄3年(1560年)春日虎綱が越後上杉氏に対する最前線・海津城の守将を任されたため、後任として武田氏庶流の御一門衆・下曾根浄喜が小諸城代となりました。
天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により信濃侵攻が始まると、劣勢となった武田家では、当主・勝頼は譜代家老・小山田氏の岩殿城へ、信玄実弟・信繁の子・武田信豊は小諸城へ逃亡しました。
小諸城代だった下曾根浄喜は信豊を裏切って城内で討取ると、首級を信長に進上し降伏しましたが、信長は同じ一門衆を裏切った事を許さず、浄喜は誅殺されたそうです。
天目山で勝頼が自刃し武田氏が滅亡すると、信長より「関東御取次役」に任じられた織田家重臣の滝川一益が上野国と信濃小県郡・佐久郡を与えられ上野国厩橋城に入城し、小諸城には一益配下の道家正栄が佐久郡小諸2万石を託されて小諸城代となりました。
しかし同年6月2日、本能寺の変で信長が横死すると甲斐・信濃では武田家遺臣による国人一揆が起こり、信長から甲斐22万石と信濃諏訪郡を与えられていた織田家重臣の河尻秀隆が殺害され、甲斐・信濃に派遣されていた織田家臣は織田領へ逃亡しました。
空白地となった武田家遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、相模の北条氏直は4万の大軍を率いて一益の支配地となっていた上野侵攻を開始しました。
一益は神流川の戦いで北条氏直に敗れると上野・信濃を放棄し、碓氷峠から小諸城を経て本領である伊勢長島城に逃亡しました。
北条軍は信濃に進撃して佐久・小県郡を支配下に治めると、さらに諏訪へ侵入、叔母・真竜院の嫁ぎ先である木曾義昌とも協力して信濃中央部の攻略に成功しましたが、8月には甲斐に侵攻してきた徳川家康軍と甲斐・若神子において対陣しました。
この間、北条方の真田昌幸が離反し武田旧臣で徳川方の依田信蕃とともに東信濃において北条軍の補給線を寸断、さらには甲斐黒駒で別働隊の北条氏忠が徳川方の平岩親吉に敗北するなど戦況は悪化し、10月には織田信雄・信孝の調停によって徳川軍との和睦を受け入れました。
上野は北条家、甲斐信濃は徳川家の領有となり北条軍は甲斐信濃から撤退、天正11年(1583年)8月には徳川家康の娘・督姫が氏直に輿入れする事となり、徳川・北条の同盟が成立し両家は縁戚関係となりました。
小諸城には家康より松平姓を許された依田信藩の嫡男・松平康国が6万石で入城しました。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐により北条家が滅亡、戦後、徳川家康が関東に移封されると小諸城には秀吉の家臣・仙石秀久が5万石で入封しました。
慶長8年(1603年)徳川家康が江戸幕府を開き幕藩体制を開始、小諸藩の藩祖となった仙石秀久は小諸城の大改修や城下町の整備を進めました。
元和8年(1622年)小諸藩2代藩主・仙石忠政は信濃上田藩6万石へ加増移封となり小諸藩は廃藩、第2代将軍・徳川秀忠の3男・徳川忠長の甲府藩領となると、小諸城代は屋代秀正・三枝昌吉・依田守直らが務めたそうです。
寛永元年(1624年)松平憲良が美濃大垣藩より5万石で入封し小諸藩が復活、その後は青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、松平乗政、松平乗紀と藩主が代わり、元禄15年(1702年)に牧野康重が入封後は10代藩主・康済に至るまでの169年間、牧野氏の居城となりました。
「小諸城三之門」(2011.07.11旦那撮影)
懐古園入口となる小諸城三之門です。
門をくぐって中に入ると、懐古園の入園券が売っていますので、神社参拝や園内散策のみの方は300円を払って券を購入します。
500円の入園券を購入すると小諸市動物園や小諸市児童遊園地にも入る事が出来ますので、小さいお子様連れの方はお子様が喜ぶと思います。
この三之門は元和元年(1615年)初代小諸藩主・仙石秀久によって小諸城が近世城郭へと大改修された時に設けられましたが、寛保2年(1742年)8月1日に千曲川流域で起きた未曾有の大水害で流失してしまったため、明和3年(1766年)に小諸藩牧野氏3代藩主・ 牧野康満によって再建されました。
ちなみに、徳川宗家16代当主・徳川家達の筆による「懐古園」の扁額が掲げられている三之門は国指定重要文化財ですが、所有者は懐古神社となっています。
「小諸城 天守台石垣」(2011.07.11旦那撮影)
小諸城には仙石秀久が大改修した時に桐紋の金箔押瓦が用いられた三重天守が建てられましたが、寛永3年(1626年)に落雷によって焼失してしまいました。
「大河ドラマ 風林火山とコラボした城址案内板」 (2011.07.11旦那撮影)
小諸城の縄張りは武田信玄の軍師・山本勘助によるものだといわれています。
2011年7月に行った時には勘助ゆかりの城跡という事で、2007年にNHKで放送された内野聖陽さん主演の大河ドラマ「風林火山」で、信玄の実弟・信繁役を演じた嘉島典俊さんの書による小諸城の案内板が設置されていました。
2022.06.09参拝
「懐古神社 参道」
懐古神社は小諸城址本丸跡の一角に鎮座しています。
懐古神社の創建は明治13年(1881年)4月、小諸城跡を懐古園として整備した際に、旧小諸藩の有志によって、小諸藩を治めた牧野氏歴代藩主の御霊を、藩政時代より城内の鎮守神として祀られていた天満宮・火魂社と合祀して建立されました。
「懐古神社」
長野県小諸市丁本丸跡314
「鳥居」
参道を進むと石鳥居が建っていて、鳥居左側には池があり錦鯉が悠々と泳いでいました。
「懐古神社 社殿」
昭和62年(1987年)11月に改築されたものだそうです。
「鏡石」
社務所の手前には鏡石といわれる武田信玄の軍師・山本勘助が愛用していたと伝わる石があります。
山本勘助
武田の五名臣の一人にも数えられる伝説的天才軍師です。
歴史研究家からは存在が疑われていた「山本勘助」ですが、近年、歴史資料に「山本菅助」という武将の存在が確認され、実在していたのは間違いなさそうです。
勘助は明応2年(1493年)駿河国富士郡山本村の武士・山本(吉野)貞幸と妻・安の四男として生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣・大林勘左衛門の養子となったと伝わります。
天文5年(1536年)浪人だった勘助は、海道一の弓取りとも称された駿河国主・今川義元に仕官するため家老・庵原忠胤の屋敷に寄宿し、今川家重臣・朝比奈信置を通して仕官を志願しましたが、色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指も揃っていないという勘助の容貌を嫌った義元は召抱える事はなく、剣術で数回手柄を立てた時も流行の新当流ではなく京流だったため、認められる事はありませんでした。
天文12年(1543年)駿河国に優れた兵法家がいる事を聞きつけた武田家臣筆頭格・板垣信方は、主君・武田晴信(信玄)に勘助を推挙し、武田家は破格の条件の知行100貫で召し抱えると勘助に伝えました。
武田家の本拠・躑躅ヶ崎館に出仕した勘助は晴信と初めて対面しましたが、晴信は勘助の才能を見抜くと知行200貫で召し抱える事としました。
晴信が信濃国へ侵攻すると、勘助は様々な策を用いて活躍し、武田家の軍師にまで昇りつめました。
勘助には数々の伝説的エピソードがありますが、史実とは年代が違っていたり、負けた戦が勝ち戦になっていたり、信憑性には疑問が残りますが、信玄が側近に取り立てるほどの武将ですから策謀や知識が豊富だったのは間違いないと思います。
ちなみに、軍師と言われるようになったのは江戸時代になってからで、当時の資料には勘助が「軍師」との記録は一切ありません。
また、ヤマカンという当てずっぽうを意味する言葉は、山本勘助が由来の言葉です。
天文22年(1553年)武田家が北信濃に海津城を築きましたが、この城の縄張りは勘助が任されたもので、城主・春日虎綱(高坂昌信)は、海津城を「武略の粋が極められている」と称賛し、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれ、重臣・馬場信春も築城術を伝授されたそうです。
また、有名な分国法「甲州法度之次第」ですが、これを晴信に献策したのも勘助なんだそうです。
永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いで自身の献策した「啄木鳥の戦法」を上杉政虎(謙信)に見破られ、危険が迫った本陣を守るため、勘助は僅かな手勢で敵中に突撃して13騎を討取る働きをしましたが、猛将と名高い上杉家先鋒・柿崎景家の軍勢に囲まれると、四方八方から槍を突かれて落馬、柿崎配下の坂木磯八に討取られてしまいました。
勘助の首級は残った山本勢が柿崎勢から奪い返したそうです。
直書きで頂いた御朱印
+-小諸城-+
「小諸城大手門」(2011.07.11旦那撮影)
長享元年(1487年)小笠原氏一族の大井光忠によって築城された鍋蓋城、後に光忠の子・光為が築いた出城・乙女坂城が小諸城の発祥と伝わります。
天文22年(1553年)甲斐の武田信玄は信濃に侵攻すると鍋蓋城・乙女坂城など諸城を攻略、軍師・山本勘助に東信濃の拠点となる城の築城を命じました。
勘助は鍋蓋城・乙女坂城を縄張りに組み込んだ大規模な城郭の築城に着手し、天文23年(1554年)小諸城が完成すると、譜代家老・春日虎綱(高坂昌信)が城代となりました。
永禄3年(1560年)春日虎綱が越後上杉氏に対する最前線・海津城の守将を任されたため、後任として武田氏庶流の御一門衆・下曾根浄喜が小諸城代となりました。
天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により信濃侵攻が始まると、劣勢となった武田家では、当主・勝頼は譜代家老・小山田氏の岩殿城へ、信玄実弟・信繁の子・武田信豊は小諸城へ逃亡しました。
小諸城代だった下曾根浄喜は信豊を裏切って城内で討取ると、首級を信長に進上し降伏しましたが、信長は同じ一門衆を裏切った事を許さず、浄喜は誅殺されたそうです。
天目山で勝頼が自刃し武田氏が滅亡すると、信長より「関東御取次役」に任じられた織田家重臣の滝川一益が上野国と信濃小県郡・佐久郡を与えられ上野国厩橋城に入城し、小諸城には一益配下の道家正栄が佐久郡小諸2万石を託されて小諸城代となりました。
しかし同年6月2日、本能寺の変で信長が横死すると甲斐・信濃では武田家遺臣による国人一揆が起こり、信長から甲斐22万石と信濃諏訪郡を与えられていた織田家重臣の河尻秀隆が殺害され、甲斐・信濃に派遣されていた織田家臣は織田領へ逃亡しました。
空白地となった武田家遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、相模の北条氏直は4万の大軍を率いて一益の支配地となっていた上野侵攻を開始しました。
一益は神流川の戦いで北条氏直に敗れると上野・信濃を放棄し、碓氷峠から小諸城を経て本領である伊勢長島城に逃亡しました。
北条軍は信濃に進撃して佐久・小県郡を支配下に治めると、さらに諏訪へ侵入、叔母・真竜院の嫁ぎ先である木曾義昌とも協力して信濃中央部の攻略に成功しましたが、8月には甲斐に侵攻してきた徳川家康軍と甲斐・若神子において対陣しました。
この間、北条方の真田昌幸が離反し武田旧臣で徳川方の依田信蕃とともに東信濃において北条軍の補給線を寸断、さらには甲斐黒駒で別働隊の北条氏忠が徳川方の平岩親吉に敗北するなど戦況は悪化し、10月には織田信雄・信孝の調停によって徳川軍との和睦を受け入れました。
上野は北条家、甲斐信濃は徳川家の領有となり北条軍は甲斐信濃から撤退、天正11年(1583年)8月には徳川家康の娘・督姫が氏直に輿入れする事となり、徳川・北条の同盟が成立し両家は縁戚関係となりました。
小諸城には家康より松平姓を許された依田信藩の嫡男・松平康国が6万石で入城しました。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐により北条家が滅亡、戦後、徳川家康が関東に移封されると小諸城には秀吉の家臣・仙石秀久が5万石で入封しました。
慶長8年(1603年)徳川家康が江戸幕府を開き幕藩体制を開始、小諸藩の藩祖となった仙石秀久は小諸城の大改修や城下町の整備を進めました。
元和8年(1622年)小諸藩2代藩主・仙石忠政は信濃上田藩6万石へ加増移封となり小諸藩は廃藩、第2代将軍・徳川秀忠の3男・徳川忠長の甲府藩領となると、小諸城代は屋代秀正・三枝昌吉・依田守直らが務めたそうです。
寛永元年(1624年)松平憲良が美濃大垣藩より5万石で入封し小諸藩が復活、その後は青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、松平乗政、松平乗紀と藩主が代わり、元禄15年(1702年)に牧野康重が入封後は10代藩主・康済に至るまでの169年間、牧野氏の居城となりました。
「小諸城三之門」(2011.07.11旦那撮影)
懐古園入口となる小諸城三之門です。
門をくぐって中に入ると、懐古園の入園券が売っていますので、神社参拝や園内散策のみの方は300円を払って券を購入します。
500円の入園券を購入すると小諸市動物園や小諸市児童遊園地にも入る事が出来ますので、小さいお子様連れの方はお子様が喜ぶと思います。
この三之門は元和元年(1615年)初代小諸藩主・仙石秀久によって小諸城が近世城郭へと大改修された時に設けられましたが、寛保2年(1742年)8月1日に千曲川流域で起きた未曾有の大水害で流失してしまったため、明和3年(1766年)に小諸藩牧野氏3代藩主・ 牧野康満によって再建されました。
ちなみに、徳川宗家16代当主・徳川家達の筆による「懐古園」の扁額が掲げられている三之門は国指定重要文化財ですが、所有者は懐古神社となっています。
「小諸城 天守台石垣」(2011.07.11旦那撮影)
小諸城には仙石秀久が大改修した時に桐紋の金箔押瓦が用いられた三重天守が建てられましたが、寛永3年(1626年)に落雷によって焼失してしまいました。
「大河ドラマ 風林火山とコラボした城址案内板」 (2011.07.11旦那撮影)
小諸城の縄張りは武田信玄の軍師・山本勘助によるものだといわれています。
2011年7月に行った時には勘助ゆかりの城跡という事で、2007年にNHKで放送された内野聖陽さん主演の大河ドラマ「風林火山」で、信玄の実弟・信繁役を演じた嘉島典俊さんの書による小諸城の案内板が設置されていました。
2022.08.19 23:02 | comment(0)
塚崎香取神社
関宿城主・久世広誉も縋った200年以上の伝統「塚崎の獅子舞」を受け継ぐ塚崎の鎮守社「塚崎香取神社」で書き置きの御朱印を頂きました。
2022.07.07参拝
「塚崎香取神社 参道」
塚崎香取神社は宮戸川沿いの土手に平行して建っています。
杉並木に囲まれた土の参道は趣があって、歴史が感じられました。
「塚崎香取神社」
茨城県猿島郡境町塚崎2876
「鳥居」
塚崎香取神社の鳥居は平成18年(2006年)に建立されたものだそうです。
「狛犬」
昭和15年(1940年)に建立されたもので、大きな狛犬の乗っている獅子岩には小さな狛犬もいました。
「拝殿」
平成30年(2018年)に改築されたばかりの真新しい木造の拝殿は、これから永い年月をかけて黒味が増して渋みが出てくるんでしょうね。
塚崎香取神社の創建は天正14年(1586年) と伝わっています。
天正14年には天正壬午の乱も収まり、相模の北条氏による関東支配が本格化していた頃ですので、国境を守る鎮守社としてご祭神を経津主神とする香取神社が建立されたのかも知れません。
元禄3年(1690年)現在鎮座している場所に遷座されたそうです。
塚崎香取神社には「塚崎の獅子舞」という舞が代々継承されていて、その歴史は200年以上とも言われています。
文化年間(1804年~1817年)に見舞われた大干ばつの際には、関宿藩久世家5代当主で関宿城主・久世大和守広誉に依頼されて雨乞いのために舞う「天水こぼし」を奉納し、大雨を降らせたとの伝承があります。
毎年4月15日、7月15日、11月15日に舞われ、悪疫退散、五穀豊穣などを祈願して奉納されるそうです。
昭和35年(1960年)3月、茨城県の無形文化財に指定されました。
書き置きで頂いた御朱印。
初穂料はお賽銭箱に入れて下さい。
直書きで拝受されたい方は、お賽銭箱の所に宮司さんの連絡先の記載があり、できる限り対応して頂けるそうです。
お盆に旦那の実家に帰省したんですが、納戸のかたずけをしてたら古い袴の袖口の中から出てきました。
旦那の祖父か曾祖父のものだと思いますが古い時代のお金のようです。
孫(曾孫)にお小遣いをあげようとしたのかも知れませんね(*^-^*)
2022.07.07参拝
「塚崎香取神社 参道」
塚崎香取神社は宮戸川沿いの土手に平行して建っています。
杉並木に囲まれた土の参道は趣があって、歴史が感じられました。
「塚崎香取神社」
茨城県猿島郡境町塚崎2876
「鳥居」
塚崎香取神社の鳥居は平成18年(2006年)に建立されたものだそうです。
「狛犬」
昭和15年(1940年)に建立されたもので、大きな狛犬の乗っている獅子岩には小さな狛犬もいました。
「拝殿」
平成30年(2018年)に改築されたばかりの真新しい木造の拝殿は、これから永い年月をかけて黒味が増して渋みが出てくるんでしょうね。
塚崎香取神社の創建は天正14年(1586年) と伝わっています。
天正14年には天正壬午の乱も収まり、相模の北条氏による関東支配が本格化していた頃ですので、国境を守る鎮守社としてご祭神を経津主神とする香取神社が建立されたのかも知れません。
元禄3年(1690年)現在鎮座している場所に遷座されたそうです。
塚崎香取神社には「塚崎の獅子舞」という舞が代々継承されていて、その歴史は200年以上とも言われています。
文化年間(1804年~1817年)に見舞われた大干ばつの際には、関宿藩久世家5代当主で関宿城主・久世大和守広誉に依頼されて雨乞いのために舞う「天水こぼし」を奉納し、大雨を降らせたとの伝承があります。
毎年4月15日、7月15日、11月15日に舞われ、悪疫退散、五穀豊穣などを祈願して奉納されるそうです。
昭和35年(1960年)3月、茨城県の無形文化財に指定されました。
書き置きで頂いた御朱印。
初穂料はお賽銭箱に入れて下さい。
直書きで拝受されたい方は、お賽銭箱の所に宮司さんの連絡先の記載があり、できる限り対応して頂けるそうです。
お盆に旦那の実家に帰省したんですが、納戸のかたずけをしてたら古い袴の袖口の中から出てきました。
旦那の祖父か曾祖父のものだと思いますが古い時代のお金のようです。
孫(曾孫)にお小遣いをあげようとしたのかも知れませんね(*^-^*)
2022.08.16 23:28 | comment(0)