【花園神社】芸能人もお忍びで通う?花園神社の「芸能浅間神社」で推し活祈願!
新宿総鎮守花園神社で直書きの御朱印を頂きました。

「花園神社」
所在地:東京都新宿区新宿5-17-3
駐車場:なし
アクセス:新宿三丁目駅(丸ノ内線・副都心線・都営新宿線)E2出口すぐ、新宿駅(JR・各私鉄)東口から徒歩約7分

新宿の喧騒の中にふっと現れる赤い鳥居。今回は、新宿の街を見守り続ける「新宿総鎮守 花園神社」を散策してきました。
都会の真ん中とは思えない静かな空気と、新宿ならではのユニークな見どころをレポートします!


「二宮金次郎像」

⛩️ 新宿の守り神、花園神社へ
新宿三丁目駅からすぐ、伊勢丹や歌舞伎町のすぐそばにあるとは思えないほど、境内に入ると空気が変わります。
ここは江戸開府以前からこの地にある、歴史ある神社です。
朱塗りの美しい社殿を前にすると、背後のビル群とのコントラストが現代の東京らしくて、なんだか不思議なパワーを感じます。


🌟 芸能人もお忍びで通う?「芸能浅間神社」
拝殿のすぐ近くにある「芸能浅間神社」は、花園神社ならではのスポット。
江戸時代から芝居や舞踊と縁が深く、今でも多くの著名人やアーティストが参拝に訪れるそうです。奉納された名前の中には、誰もが知る有名人の名前も見つかるかもしれません。
クリエイティブな活動をしている方や、推し活の成功を願う方にもおすすめのパワースポットです。


✨ 隠れた名所「威徳稲荷神社」
もう一つ外せないのが、境内末社の「威徳稲荷神社」。
立ち並ぶ赤い鳥居のトンネルは、都会の真ん中にいることを忘れさせてくれるフォトジェニックな空間。
ここは縁結びや夫婦和合のご利益があると言われていて、女性の参拝客も多く見かけました。


「社殿」
花園神社の創建時期は不明ですが、徳川家康関東入封時の天正18年(1590年)にはすでにあったとされています。

🍂 11月は「酉の市」で大賑わい
花園神社といえば、毎年11月に開催される「酉の市(大酉祭)」が有名です。
商売繁盛を願う熊手がずらりと並び、夜通し屋台の灯りが灯る様子は圧巻!
新宿の冬の風物詩として、毎年多くの人で賑わいます。


青空に朱色の拝殿がとても映えます。

🖌️ 御朱印と参拝のあとに
参拝後には、社務所で御朱印をいただくのも忘れずに。
また、境内には骨董市(日曜開催)が開かれていることもあり、掘り出し物に出会えるチャンスもあります。


直書きで頂いた御朱印。
神社だけにジンジャーティーも頂けました。

新宿でのショッピングやランチの合間に、ふらっと立ち寄れる都会のオアシス。
忙しい日常の中で少し心を整えたいとき、ぜひ足を運んでみてくださいね。
2022.08.10 17:33 | comment(0)
【福徳神社(芽吹稲荷)】ビル風に吹かれる小さな森で|新事業の成功を願う「芽吹き」の参拝記
福徳神社で御朱印を頂きました。
参拝日:2022.07.11

「福徳神社(芽吹稲荷)」
所在地:東京都中央区日本橋室町2-4-14
駐車場:なし
アクセス:東京メトロ銀座線・半蔵門線三越前駅(A6出口)より徒歩1分、JR総武快速線 新日本橋駅より徒歩1分

日本橋のビル群に囲まれた福徳神社(芽吹稲荷)。
そのモダンな佇まいとは裏腹に、1,000年を超える壮大な歴史がこの地には息づいています。


「手水舎」
■歴史
貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたと伝わります。
日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村(あるいは野口村福徳)と呼ばれており、その地名から「福徳稲荷」と呼ばれていたそうです。
明治7年(1847年)8月9日、「村社」に列され、社号も「福徳稲荷」から現在の「福徳神社」に変更されました。

■名だたる武将の崇敬
・源義家(八幡太郎の通称で知られ、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏の祖先)
奥州下向の際に参拝したと伝えられています。

・太田道灌
江戸城を築いた道灌とも縁が深く、彼の神霊は福徳神社に合祀されています。

・徳川家康
天正18年の江戸入部直後に参詣した。

この神社が、古くから武家にとって重要な社であったことがわかります。

■「芽吹」の名を与えた徳川秀忠
神社の代名詞である「芽吹稲荷」の名は、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠によって名付けられました。
1614年(慶長19年)の正月、参拝に訪れた秀忠は、クヌギの鳥居から鮮やかな「若芽」が吹き出しているのを目にします。
その生命力に感動した秀忠が「芽吹稲荷」の別名を授け、幕府の保護下で隆盛を極めました。

■「宝くじ(富籤)」との深い縁
江戸時代、福徳神社は幕府から「富籤(とみくじ)」の興行を許された数少ない神社の一つでした。
これが、現代における「宝くじ当選」「チケット当選」のパワースポットとしてのルーツです。
当時の人々も、夢を託してこの社に手を合わせていたのです。

■消失の危機と奇跡の再興
明治以降、そして戦後の都市開発の中で、神社は何度も存続の危機に立たされました。
一時はビルの屋上に遷座したり、小さな祠のみになったりした時期もありましたが、地元日本橋の人々の熱意によって守り抜かれました。
そして2014年、日本橋再生計画によって現在の地に「福徳の森」とともに美しく再興。1,000年前の伝統と、最新の都市文化が融合した現在の姿へと生まれ変わりました。


「拝殿」
広瀬すずさん出演のCMでもおなじみの「福徳神社」、ビル群の中に鮮やかな朱色の鳥居が映える、人気のフォトスポットです。


拝受した御朱印

福徳神社の歴史は、日本橋の街が変化しても、変わらずそこにあり続ける「再生と成長」の象徴そのものと言えます。
ぜひ、このパワーを感じに現地へ訪れてみてください。
2022.08.09 15:53 | comment(0)
【真田山長谷寺】真田一族の最初の菩提寺|真田三代が眠る「長谷寺」の御朱印
真田山長谷寺(しんでんさん ちょうこくじ)で書置きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「真田山種月院長谷寺」
所在地:長野県上田市真田町長4646
駐車場:あり(無料)
アクセス:上信越道「上田菅平IC」から国道144号経由で約15分、JR上田駅から上田バス(真田経由菅平高原行き)で「真田」バス停下車徒歩約15分

戦国ファンなら一度は訪れたい聖地、長野県上田市にある「真田山 長谷寺」をご紹介します。
上田といえば「上田城」が有名ですが、真田一族の本当のルーツに触れるなら、ここ長谷寺は絶対に外せません。



「六地蔵」
駐車場から墓地の脇の坂道を登っていくと、両脇に3体ずつお地蔵様が並んでいました。

■長谷寺の歴史
長谷寺は天文16年(1547年)信濃小県郡真田郷を領した真田幸隆が居城・松尾城内(真田氏本城)にあった種月庵跡地に禅僧・伝為晃運を招き創建しました。

慶長5年(1600年)徳川秀忠と真田昌幸が争った第二次上田合戦の際に、徳川勢に放火され焼失してしまいました。
その後、長谷寺は再建され、上田藩主となっていた幸隆の孫にあたる信之(昌幸の嫡子)により幸隆夫妻と昌幸の菩提所として保護されていました。

元和8年(1622年)幕府の命令によって真田氏は松代へ転封となったため、長谷寺の6世住職も松代に移り住み、松代で真田山長國寺を開山しました。

長谷寺は明治23年(1890年)に火災によって焼失しましたが、昭和53年(1978年)に本堂などが再建されています。


階段を登って境内に入ると左側に鐘楼が建っていて、お参りする時に鐘をつく事が出来ます。

■真田幸隆
永正10年(1513年)
信濃・小県の名族、滋野一族に一人の男が生まれた。

のちに「攻め弾正」と称される智将――真田幸隆である。

しかし、その出自は今なお謎に包まれている。
海野棟綱の子とも、あるいは真田頼昌の子とも伝わるが、確かな記録は残されていない。

後世、「真田幸隆」の名で広く知られる彼の本名は「幸綱」
だが、その名以上に、この男の生き様こそが歴史に刻まれることとなる。

天文10年(1541年)5月
海野平の戦い――

滋野一族は武田・村上連合軍の前に敗れ去り、没落する。
一族は関東管領・上杉憲政を頼り、上野へと落ち延びた。

すべてを失った幸隆は、長源寺に身を寄せる。
だが、この流転の中で一人の僧と出会う。

後に長谷寺の開山となる禅僧・伝為晃運。
この出会いが、のちの真田家の精神的支柱を生むことになる。

天文16年(1547年)。
幸隆は、甲斐の若き虎――武田晴信(のちの信玄)に仕えた。

そして、失った故地・真田郷を取り戻す。

帰還を果たした幸隆は、松尾城に伝為晃運を招き、真田一族の祈りの場として長谷寺を創建した。

それは、再興への第一歩であった。

だが、戦場は容赦しない。

天文17年(1548年)、上田原の戦い。
幸隆は武田家重臣・板垣信方の旗下として参陣する。

しかし、村上義清に隙を突かれた信方は討死。
武田軍は屈辱的敗北を喫した。

この敗戦は、幸隆の胸に深く刻まれることとなる。

そして天文20年(1551年)
運命を変える一戦が訪れる。

武田晴信は、難攻不落と謳われた砥石城の攻略を幸隆に命じた。

正面から攻めれば必ず敗れる――
誰もがそう考えたその城を、幸隆は「戦わずして」落とす。

5月26日。
わずか一日での陥落。

それは力ではなく、“策”による勝利だった。

記録(高白斎記)には「乗取」と記されるこの戦い。
内応、調略、裏切り――

さらには弟・矢沢頼綱をも巻き込んだ一大策略であった可能性すらある。

敵将すら城内で討たせ、血を流さず城を奪う。
これぞ、真田幸隆の真骨頂であった。

この功績により、幸隆は旧領すべてを回復。
さらに砥石城代に任じられ、武田家中でも異例の出世を遂げる。

知略に優れるのみならず、自ら槍を取り戦場を駆ける武勇をも兼ね備えた武将。
人は彼をこう呼んだ。

――「攻め弾正」。

国人領主でありながら、譜代重臣に並ぶ地位。
それは、実力で掴み取った栄光であった。

永禄2年(1559年)
主君・晴信が出家し、「信玄」となる。

それに倣い、幸隆もまた髪を下ろし、
「一徳斎幸隆」と号した。

この時より、「幸隆」の名が後世に伝わることとなる。

永禄4年(1561年)
川中島、第四次決戦。

幸隆は嫡男・信綱とともに別動隊を率い、妻女山への夜襲という危険な任を担った。

武田軍の命運を賭けた作戦の中核――
そこに、この男の信頼の深さが表れている。

その後も上野攻略において躍動する。

岩櫃城、嵩山城、白井城――
次々と敵城を攻略し、ついには要衝・箕輪城代を任されるまでに至る。

もはや一国人の域を超えた存在であった。

だが、時はすべての武将に平等に訪れる。

永禄10年(1567年)
幸隆は病を理由に家督を嫡男・信綱へ譲り、戦場を去った。

そして天正2年(1574年)5月19日。
砥石城にて、その生涯に幕を下ろす。

すべてを失った敗者から、知略で国を取り戻した復活の将へ。

真田幸隆――
その生き様は、後の真田一族の礎となり、やがて「日本一の兵」へと繋がっていくのである。


ちょうどお昼時にお伺いしてしまいましたが、本堂を入ったところにお賽銭箱と書置きの御朱印が置いてありました。
本堂の裏手には真田幸隆夫妻、真田昌幸公の墓所もあります。

上田城から車で15分ほど。
真田一族の情熱と歴史を肌で感じに、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
2022.08.08 22:52 | comment(0)
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御朱印集め初心者夫婦が自由気ままに御朱印巡りをしています。

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