【小諸鹿嶋神社】戦国を生き抜いた仙石秀久の祈りの地|歴史ロマンと絶品そば旅
豊臣秀吉最古参の家臣・小諸城主 仙石秀久も崇敬した「小諸鹿嶋神社」で書置きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「小諸鹿嶋神社」
所在地:長野県小諸市古城雉子原丁221-2
駐車場:あり(無料)
アクセス: JR小海線・しなの鉄道「小諸駅」より徒歩約9分、上信越自動車道「小諸IC」より約6分

「無」の旗印を掲げ、失敗から復活を遂げた武将・仙石秀久。
その彼が小諸城主として崇敬した神社が、長野県小諸市に鎮座する小諸鹿嶋神社です。

今回は、そんな戦国の記憶が残る小諸鹿嶋神社を参拝し、書置きの御朱印をいただいてきました。

ご利益: 勝利祈願、必勝祈願、武勇の神、厄除け、家内安全など


小諸城大手門付近に鎮座していた鹿嶋神社でしたが、昭和24年(1949年)に小諸駅周辺の区画整備により現在の場所に遷座されました。


「社殿」
小諸鹿嶋神社は無人社なので、宮司さんに神社の詳細をお聞きする事が出来ませんでした。
初代小諸藩主・仙石秀久は当時、鹿嶋郭と呼ばれていた大手門近くの鹿嶋神社の社殿を造営しました。
鹿嶋神社は歴代の小諸藩主から崇敬を受け、手厚く保護されたそうです。

■小諸鹿嶋神社の歴史
小諸鹿嶋神社の創建時期などは不明です。
境内には7~8世紀ころの古墳があったそうで、歴史は相当古い神社という事は間違いなさそうです。
天正18年(1590年)豊臣秀吉から小諸領5万石を与えられ小諸城主となっていた仙石秀久が、徳川幕府より初代小諸藩主に任じられ、小諸城の大改修を行った際に、小諸城の鎮守社として社殿の造営を行なったそうです。

■仙石秀久
仙石家は、藤原北家魚名流の藤原利仁を家祖とする家でした。
しかし、清和源氏の名門・土岐氏の血を引く親族の仙石久重が、仙石家当主・仙石基秀の娘を妻に迎えて家督を継ぐと、以後は土岐源氏の支流として源氏を称するようになります。

もともと仙石家は美濃守護・土岐氏の家臣でしたが、土岐氏を追放して美濃の国主となった斎藤道三に仕えるようになりました。

秀久は天文21年(1552年)1月26日、斎藤家臣・仙石治兵衛久盛の四男として生まれます。四男であったため家督相続の資格はなく、越前の豪族・萩原国満の養子となりました。

やがて永禄年間、織田信長が台頭し、美濃国主・斎藤龍興との争いが激化します。この戦乱の中で仙石家の嫡男が討死すると、秀久は父・久盛に呼び戻され、家督を継ぐことになりました。

永禄10年(1567年)、斎藤家の重臣であった西美濃三人衆(稲葉良通・安藤守就・氏家直元)が信長に内応し、稲葉山城が落城。主君・斎藤龍興は伊勢長島へ落ち延びます。

このとき14歳だった秀久は助命され、木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)の与力として織田家に仕えることになりました。

秀久は秀吉の馬廻として各地を転戦し、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで武功を挙げます。これにより天正2年(1574年)、近江野洲郡に千石を与えられました。

さらに中国攻めでも活躍し、天正6年(1578年)には4千石に加増、翌年には摂津茶臼山城を与えられます。天正9年(1581年)には黒田孝高らとともに淡路へ渡り、岩屋城・由良城を攻略しました。

天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が横死すると、秀吉は毛利と和睦して畿内へ引き返します。この間、秀久は淡路に残り、明智方の勢力を討伐して平定に貢献しました。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、秀久は四国方面の抑えとして行動します。淡路・小豆島を押さえた後、讃岐へ渡って引田城に入りますが、長宗我部方との戦いで敗北し、城を失います。この戦いでは軍旗を奪われる失態もありました。

しかしその後、淡路と小豆島の守備を固めて瀬戸内の制海権を維持し、功績により淡路5万石を与えられて大名となり、洲本城主となりました。

洲本城主となった秀久は水軍を統率し、紀州征伐や四国攻めで活躍。天正13年(1585年)には讃岐一国を与えられるまでに出世します。

しかし天正14年(1586年)、九州征伐の先鋒として豊後に派遣された秀久は、戸次川の戦いで島津軍の「釣り野伏せ」に敗北。長宗我部信親や十河存保を失う大敗を喫します。

さらに秀久自身も戦後処理を放棄して撤退したため責任を問われ、所領を没収されて高野山へ追放されました。

天正18年(1590年)、小田原征伐の際に旧臣を率いて参陣し、徳川家康の取り成しによって復帰します。以後の戦いで武功を挙げ、赦免されると信濃小諸5万石を与えられ、小諸城主となりました。

その後は朝鮮出兵や伏見城築城で功績を挙げ、加増を受けます。また伏見では石川五右衛門を捕らえたという伝承も残ります。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、徳川秀忠を補佐。第二次上田合戦では人質となる覚悟を示すなどして信頼を得ました。

その後、秀忠が将軍となると幕府から重用され、小諸藩主として領内整備や城の改修を進めます。

晩年は将軍家との関係も深く、特別な待遇を受けましたが、慶長19年(1614年)、江戸からの帰途に病を得て武蔵国鴻巣で死去しました。

幾多の戦を乗り越え、失意から復活を遂げた仙石秀久。
その彼が祈りを捧げた小諸鹿嶋神社には、ただの鎮守社ではない“武将の覚悟”のようなものが今も静かに息づいているように感じました。

「無」の旗印に込めた想いは何だったのか――
そんなことを考えながら境内に立つ時間は、まさに戦国ロマンそのもの。

小諸城とあわせて巡ることで、より深くこの地の歴史を感じられるはずです。


書置きで頂いた御朱印。
御朱印はお賽銭箱の横にあります。
初穂料500円はお賽銭箱に入れて下さい。


「そば蔵 丁子庵」
今回の御朱印巡りの最後に小諸で絶対に食べたかったお蕎麦屋さんに寄りました。
鹿嶋神社から車で5分くらいのところにあります。
テレビでも紹介されるほど小諸では有名なお店で、コロナ前は行列ができる事もあったそうです。


写真では明るい感じになってしまってますが、店内は暗めの照明効果もあって、レトロな雰囲気の漂うとても落ち着いた感じの店内です。
店内にはレトロな小物などが展示されていて、丁子庵さんを訪れた芸能人のサインも飾られていました。


「天ざる辛味大根おろしそば(大盛)」
少々お値段は張りますが、茄子の天婦羅はお味噌が挟んであって最高でした。
お蕎麦はのど越しもよく蕎麦粉の香りがしっかりとして、本当においしかったです。
大盛を注文したのは旦那です、私は普通盛でした(;・∀・)

歴史ある小諸鹿嶋神社で静かな時間を過ごし、最後は丁子庵で絶品のお蕎麦をいただく――。
歴史と食のどちらも満喫できる、小諸らしい一日となりました。

戦国の記憶が残るこの地を歩くと、何気ない風景の中にも物語が感じられます。
小諸を訪れる際は、ぜひゆっくりと巡ってみてください。
2022.08.20 23:15 | comment(0)
【懐古神社】山本勘助が縄張りした小諸城跡へ|懐古神社で頂く直書き御朱印と歴史散策
武田信玄の天才軍師 山本勘助が縄張りしたと伝わる小諸城址に建立された「懐古神社」で直書きの御朱印を頂きました。
2022.06.09参拝

「懐古神社」
所在地:長野県小諸市丁本丸跡314
駐車場:あり(有料500円)
アクセス:しなの鉄道「小諸駅」から徒歩約3分

信濃の要衝として知られる小諸城。
この城は、武田信玄の天才軍師・山本勘助が縄張りしたとも伝わる、戦国ロマンあふれる城郭です。

現在は「懐古園」として整備され、歴史を感じながら散策できる人気スポットとなっていますが、その本丸跡にはひっそりと佇む神社があります。

それが、今回参拝した「懐古神社」です。

小諸藩ゆかりの神々が祀られるこの神社で、直書きの御朱印をいただきながら、かつての戦国の舞台に思いを馳せてきました。

今回は、山本勘助ゆかりの小諸城址とともに、懐古神社の魅力をご紹介します。

■懐古神社の歴史
懐古神社は小諸城址本丸跡の一角に鎮座しています。
明治13年(1881年)4月、小諸城跡を懐古園として整備した際に、旧小諸藩の有志によって、小諸藩を治めた牧野氏歴代藩主の御霊を、藩政時代より城内の鎮守神として祀られていた天満宮・火魂社と合祀して建立されました。


「鳥居」
参道を進むと石鳥居が建っていて、鳥居左側には池があり錦鯉が悠々と泳いでいました。


「懐古神社 社殿」
昭和62年(1987年)11月に改築されたものだそうです。


「鏡石」
社務所の手前には鏡石といわれる武田信玄の軍師・山本勘助が愛用していたと伝わる石があります。

■山本勘助
武田の五名臣の一人にも数えられる、伝説的な天才軍師・山本勘助。

かつてはその存在自体が疑問視されていましたが、近年の研究により「山本菅助」という武将の記録が確認され、実在していた可能性は極めて高いと考えられています。

勘助は明応2年(1493年)、駿河国富士郡山本村の武士・山本(吉野)貞幸と妻・安の四男として誕生。
のちに三河国牛窪城主・牧野氏の家臣である大林勘左衛門の養子になったと伝わります。

天文5年(1536年)、浪人となっていた勘助は、駿河国主・今川義元への仕官を目指します。
家老・庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣・朝比奈信置を通じて仕官を願い出ました。

しかし、色黒で容貌が醜く、隻眼で傷だらけ、足も不自由という風貌を義元に嫌われ、召し抱えられることはありませんでした。
さらに、剣術で手柄を立てても流行の新当流ではなく京流だったため、評価されることはなかったといわれています。

その後、天文12年(1543年)。
駿河に優れた兵法家がいると聞いた武田家臣・板垣信方が、主君・武田晴信(信玄)に勘助を推挙します。

武田家は破格の知行100貫で召し抱える意向を示し、勘助は甲府の躑躅ヶ崎館へ出仕。
晴信は勘助と対面すると、その才能を見抜き、さらに知行を200貫に引き上げて召し抱えました。

こうして勘助は武田家に仕え、信濃侵攻において数々の策を用いて活躍し、やがて軍師的な立場にまで昇りつめていきます。

もっとも、「軍師」として語られるようになったのは江戸時代以降であり、当時の史料にはそのような記述は一切ありません。
また、数々の逸話についても年代の不一致や誇張が見られ、史実としては疑問が残る部分もあります。

それでも、信玄が側近として重用した事実から、勘助が優れた知略と知識を持っていた人物であったことは間違いないでしょう。

ちなみに、「ヤマカン(山勘)」という“当てずっぽう”を意味する言葉は、山本勘助に由来するとされています。

天文22年(1553年)、武田家は北信濃に海津城を築城。
この縄張りを任されたのが勘助でした。

城主・春日虎綱(高坂昌信)はその出来を「武略の粋」と称賛し、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれるほど高く評価されました。
また、重臣・馬場信春にもその技術が伝えられたといわれています。

さらに、武田家の分国法として有名な「甲州法度之次第」も、勘助が晴信に献策したものとされています。

そして永禄4年(1561年)、第四次川中島の戦い。

勘助は「啄木鳥の戦法」を献策しますが、これが上杉政虎(謙信)に見破られてしまいます。
危機に陥った本陣を守るため、勘助はわずかな手勢で敵中に突撃。

13騎を討ち取る奮戦を見せたものの、上杉軍先鋒・柿崎景家の軍勢に包囲され、四方から槍を受けて落馬。
最期は柿崎配下の坂木磯八に討ち取られました。

なお、その首級は山本勢によって奪い返されたと伝えられています。


直書きで頂いた御朱印

+-小諸城-+

「小諸城大手門」(2011.07.11旦那撮影)

■小諸城の歴史
長享元年(1487年)、小笠原氏一族の大井光忠によって築かれた鍋蓋城、そしてその子・光為が築いた出城・乙女坂城。
これらが小諸城のはじまりと伝えられています。

天文22年(1553年)、甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻。
鍋蓋城・乙女坂城などを攻略すると、軍師・山本勘助に東信濃の拠点となる城の築城を命じました。

勘助は両城を縄張りに取り込んだ大規模な城郭を築き、翌・天文23年(1554年)に小諸城が完成。
城代には譜代家老・春日虎綱(高坂昌信)が置かれました。

その後、永禄3年(1560年)には春日虎綱が海津城の守将となったため、後任として武田一門の下曾根浄喜が城代となります。

天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐が始まると情勢は一変します。

武田家が劣勢に立たされる中、当主・武田勝頼は岩殿城へ、信玄の弟・信繁の子である武田信豊は小諸城へ逃れました。

しかし、小諸城代の下曾根浄喜は信豊を裏切り、城内で討ち取ってその首級を信長に差し出します。
ところが、同族を裏切った行為を信長に咎められ、浄喜は誅殺されてしまいました。

やがて天目山で勝頼が自刃し、武田氏は滅亡。

その後、信長により関東支配を任された滝川一益が上野・信濃を与えられ、小諸城には家臣・道家正栄が城代として入ります。

しかし同年6月、本能寺の変で信長が横死。
甲斐・信濃では武田旧臣による一揆が起こり、織田勢は各地から撤退することとなりました。

こうして空白地帯となった旧武田領をめぐり、「天正壬午の乱」が勃発します。

北条氏直は大軍を率いて上野へ侵攻し、滝川一益を破って勢力を拡大。
さらに信濃へ進出し、佐久・小県郡から諏訪方面まで制圧しました。

しかし、徳川家康軍との対峙や、真田昌幸の離反、補給線の遮断などにより戦況は悪化。
最終的に徳川方と和睦し、領地は上野を北条、甲斐・信濃を徳川が分け合う形となりました。

その後、小諸城には徳川家康のもとで松平康国が入城。

さらに天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、家康は関東へ移封され、小諸城には仙石秀久が5万石で入封しました。

慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸幕府を開くと、仙石秀久は小諸藩の藩祖となり、城の大改修や城下町の整備を進めます。

しかし元和8年(1622年)、2代藩主・仙石忠政が上田へ移封されると小諸藩は一度廃藩。
その後は徳川忠長の領地となり、城代による統治が行われました。

寛永元年(1624年)、松平憲良の入封によって小諸藩が再び立藩。

以降、藩主は青山氏、酒井氏、西尾氏、松平氏と交代し、元禄15年(1702年)に牧野康重が入封。
以後は約170年にわたり、牧野氏の居城として続きました。


「小諸城三之門」(2011.07.11旦那撮影)
懐古園の入口となる小諸城三之門。

門をくぐると入園券の販売所があり、神社参拝や園内散策のみの場合は300円で入園できます。
また、500円の入園券を購入すれば、小諸市動物園や小諸市児童遊園地にも入ることができるため、小さなお子様連れの方にもおすすめです。

この三之門は、元和元年(1615年)、初代小諸藩主・仙石秀久が城を近世城郭へと大改修した際に設けられました。

しかし、寛保2年(1742年)8月1日、千曲川流域を襲った大水害によって流失。
現在の門は、明和3年(1766年)に牧野氏3代藩主・牧野康満によって再建されたものです。

なお、門に掲げられている「懐古園」の扁額は、徳川宗家16代当主・徳川家達の筆によるもの。
この三之門は国指定重要文化財に指定されていますが、その所有者は懐古神社となっています。

「小諸城 天守台石垣」(2011.07.11旦那撮影)
小諸城には仙石秀久が大改修した時に桐紋の金箔押瓦が用いられた三重天守が建てられましたが、寛永3年(1626年)に落雷によって焼失してしまいました。


「大河ドラマ 風林火山とコラボした城址案内板」 (2011.07.11旦那撮影)
小諸城の縄張りは武田信玄の軍師・山本勘助によるものだといわれています。

2011年7月に行った時には勘助ゆかりの城跡という事で、2007年にNHKで放送された内野聖陽さん主演の大河ドラマ「風林火山」で、信玄の実弟・信繁役を演じた嘉島典俊さんの書による小諸城の案内板が設置されていました。

山本勘助が縄張りしたと伝わる小諸城址。
その歴史の中に佇む懐古神社は、戦国から江戸へと続く時代の流れを静かに伝えてくれる場所でした。

城跡を歩きながら当時の攻防に思いを巡らせ、神社で手を合わせ、御朱印をいただく――。
歴史好きにとってはたまらない、充実した時間を過ごすことができます。

駅から徒歩すぐというアクセスの良さも魅力なので、気軽に訪れることができるのも嬉しいポイントです。

戦国ロマンを感じたい方、御朱印巡りを楽しみたい方は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
2022.08.19 23:02 | comment(0)
【塚崎香取神社】「かどりさま」として親しまれる地域の守護神
関宿城主・久世広誉も縋った200年以上の伝統「塚崎の獅子舞」を受け継ぐ塚崎の鎮守社「塚崎香取神社」で書き置きの御朱印を頂きました。
2022.07.07参拝

「塚崎香取神社 参道」
塚崎香取神社は宮戸川沿いの土手に平行して建っています。
杉並木に囲まれた土の参道は趣があって、歴史が感じられました。

「塚崎香取神社」
茨城県猿島郡境町塚崎2876


「鳥居」
塚崎香取神社の鳥居は平成18年(2006年)に建立されたものだそうです。


「狛犬」
昭和15年(1940年)に建立されたもので、大きな狛犬の乗っている獅子岩には小さな狛犬もいました。


「拝殿」
平成30年(2018年)に改築されたばかりの真新しい木造の拝殿は、これから永い年月をかけて黒味が増して渋みが出てくるんでしょうね。

塚崎香取神社の創建は天正14年(1586年) と伝わっています。

天正14年には天正壬午の乱も収まり、相模の北条氏による関東支配が本格化していた頃ですので、国境を守る鎮守社としてご祭神を経津主神とする香取神社が建立されたのかも知れません。

元禄3年(1690年)現在鎮座している場所に遷座されたそうです。
塚崎香取神社には「塚崎の獅子舞」という舞が代々継承されていて、その歴史は200年以上とも言われています。

文化年間(1804年~1817年)に見舞われた大干ばつの際には、関宿藩久世家5代当主で関宿城主・久世大和守広誉に依頼されて雨乞いのために舞う「天水こぼし」を奉納し、大雨を降らせたとの伝承があります。

毎年4月15日、7月15日、11月15日に舞われ、悪疫退散、五穀豊穣などを祈願して奉納されるそうです。
昭和35年(1960年)3月、茨城県の無形文化財に指定されました。


書き置きで頂いた御朱印。
初穂料はお賽銭箱に入れて下さい。
直書きで拝受されたい方は、お賽銭箱の所に宮司さんの連絡先の記載があり、できる限り対応して頂けるそうです。


お盆に旦那の実家に帰省したんですが、納戸のかたずけをしてたら古い袴の袖口の中から出てきました。
旦那の祖父か曾祖父のものだと思いますが古い時代のお金のようです。
孫(曾孫)にお小遣いをあげようとしたのかも知れませんね(*^-^*)
2022.08.16 23:28 | comment(0)
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御朱印集め初心者夫婦が自由気ままに御朱印巡りをしています。

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